「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『エデュケイショナル・スノウ』その四

               第三の報告
 さて、総司令官閣下殿、またこの地の学校の現場に報告の中心をもどしたいと思います。まず、この辺境における諸々の教科、授業には様々な見方、受取り方ができるかと思われます。それは、小学部から中学部までの間に最も顕著にその特徴が見られると思うのです。そこで、授業内容に入る少し前の段階からわずかではありますが、こちらがまとめた点をここに御報告しておきたいと思います。
 この地域においては子どもたちは初めに、縦横に整列させられ与えられた自分たちの席に座り、黒板の前に一人の教師が立ち授業を行う形式が取られます。子どもたちの人数の標準は大体三十名から四十名程度です。当然、彼らは常に一望の下に監視せられその一挙手一投足が教師の眼によって晒されます。教師は、『キョウダン』と言って子どもたちのいる場所から一段高くなったところに立ちそれを実行するのです。最近では、この『キョウダン』がどういうわけか取除かれ出しているのですが、一人の視察員の報告によりますと教師たちの何人かが集まり、この『キョウダン』に対し反対の意志を表明し、教師と子どもとを同じ位置関係に立たせようとする運動を起こしたそうで、それでもまだ周囲から絶対の賛同を受けたわけではなく、それに最近ではかえってそうすると子どもたちの授業態度がますます悪くなり躾の面にも悪影響を及ぼすとか、ただ単に教師や黒板が見えにくくなって授業に差し支えるいった意見を述べる親や教員、それに一部の生徒たちまであらわれたため、現場はわずかこれだけのことに混乱の極みに達しているということです。
 総司令官閣下殿、しかし、私どもがここで最もお耳にとどけておきたいことは、そういった現象面のことではなく、そこに常に大きく欠落している、そのために最終的にはこの地域の様々な出来事がいつも同じ結論なり方法としてしか導かざるを得なくなってしまう事象のことなのです。私が先に見えない防波堤と称したものも、実はこの一つといえるのかも知れません。
 総司令官閣下、この地では、様々な問題が学校内で起こったとき、必ずと言っていいほど無視されるか軽視され、または排除される者が出てきます。それは問題そのものにも因りますが概ねどのケ-スにもあてはまりそうです。ある時は担任を受け持つ教師であったり、またある時は、それ以外の教師であったり、そしてこれがほとんど多くの場合を占めるのですが、学校教育においては恐らくその主たる存在であるべき子どもたち自身がその対象となることも決して少なくないのです。閣下はこのことをどうお考えになられるでしょうか。そんなことはわかりきっている、我が国のどこの場所でも多かれ少なかれ同じことだ、とお考えでしょうか。しかし私どもが推察しますにこの辺境の地においては暗黙のうちに問題そのものを、その当事者である人間もしくは大切な実証を核心の外へ置いたなかで第三者が決定を下し、その上で肝心の話合いを行っていくという形態がつくり上げられてしまっているか、もしくはそれに馴れ切っているように思われるのです。もちろん、そのことに意義申し立てをする自由もありますし、現にそういう者もいます。しかし如何んせん、その者らさえも別の立場でいるときは自らも同じ排除といった行為を繰返していることで引け目を持つためか、それらが網の目のように互いの位置関係の上に下り立ち降り重り、無反省に流れていってしまっていることが少なくないのです。先程の例を取りますと問題は『キョウダン』その本体に本質の問題があるのではなく、子どもたちの眼から見た時の教師の側にある眼に見えない『キョウダン』そのものに問題の本質はあるはずなのですが、そのことに気づいていながら実は、教師たちもそのことを後回しさせる形で順繰りに、それぞれの意見を出し合う場としてその時々を凌いでいる感がしばしば見受けられるのです。
 子どもたちは教師を『センセイ』と呼びます。それには、 先に生まれた人 という意味が含まれ、この地域がかつて最も強く影響を受けた我が国よりむしろ海を越えた大陸の思想が大きく働いていることがうかがえます。普遍性より経験訓を、日常性より建て前を、個人より集団をという考えが今も所々に、しかし確実に息衝いており、むしろそれは、過去の歴史の残滓というよりも、やはりこの地域の特質そのものなのです。我々調査団もこの事で大きく頭を悩ませました。その地域の文化をあまりに外からの影響のみで捉えてしまったり、また歴史性のみで整理しようとしていたため見逃してしまっていた断層のような陥没があったことに気づいたのです。根本的なところから申します。閣下、この地には教育というものが、もしかするとこれは全てに相当するのかも知れませんが、もともと自らの内から生まれ出し切り開かれていったものではなく、授けられ与えられ、こちらがそれを受ける側にあるという関係のうちに成り立たせることで話の折合いをつけ手を結んでしまったため、各々の胸の底ではわざわざ行きついた個々人の自由な支流から遡り、今度は逆に集団の本流に辿り着いてしまうことがはっきりわかっていても、決まってある八方塞がりのところへ返りついてしまっていることがままあると言うことなのです。我々は何かそこに、この辺境の地の自らの拵えた陥穽のようなものを感じないではありません。かつて外国政策によってヘロインづけになったある一国のように、この地域にもし閣下のおっしゃるような我々の中央と同様の、もしくはそれをもとにした教育制度をこの上さらに、強行にもたらしたならば、当然この地域の教師や子ども、それに大人たちは、それを別なものにつくりかえ、また本流を遡り逆流していくような、それでいて既に人工的に塞止められ滞ってしまっている冷たい溝のような流れの中に自らを没してしまいかねない、そんな危険な思いがあり、知らず知らずこちらも危惧を抱いてしまうわけなのです。総司令官閣下、お分かりいただけるでしょうか。何事も今は慎重に事を進めて行かなくてはなりません。閣下にはこれからも万全を期した報告書をお渡しする所存です。何とぞ、本件に関しての詳細は今しばらくお待ち下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。

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