「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『エデュケイショナル・スノウ』その六

              第五の報告
           
 総司令官閣下、ふたたび報告をCAN進学センターへともどします。いそがずにじっくり『ガッコウ』と『センター』を交互に見ていただくことが閣下にとりましても私どもにとってもよりわかりやすい方法であると考えるからです。今回は、センターの朝の様子から始めたいと思います。
 センターでは、子どもたちは、参考書やノートのつまった重いバックを手に口もとを緩ませたり、引締めたり様々な表情をしながらやってきます。動作も機敏とまではいかないまでもはっきりとした意志を示している子がいたり、そうでなかったりといろいろで、細くくびれた手足の速やかな伸び縮みがそれを物語るように、朝日を受け白金色に照らし出される長形の建物に向かい、一歩一歩進んでくるのです。その後ろには車窓から見送る保護者たちの影がくっきりと揺らめいていて、その先端はときには陽炎のように子どもたちの足もとにまでとどき、先の尖った透きとおった炎が冷えたアスファルトの地面や最近レンガづくりに模様がえされた遊舗道の上を嘗めるように蔽っているそうです。
 ビルの入口で待っている職員から挨拶された小学生の児童などは、突然だったためか声があまり出ず、元気がないことを理由にもう一度やりなおしをさせられたりもします。センターの職員は出迎えのため玄関前に立ち、時には重い荷物にバランスを奪われ躓きそうなぐらいふらふらしてやって来る子どもたちにそうやって訓練を行っているのです。閣下、驚くことは、このような子どもたちを見て、センターの代表である片桐は週に二回だけの授業ではもの足りず、最近では現段階のセンターの学習能率に限界があるように考えているということです。かつてセンターの創設当時、人員の不足もあり週一回の学習を毎週日曜日にまとめて行っていたのですが、そのころはあれこれ理屈をつけ保護者を納得させ、子どもたちの集中を高める上でも、また職員の労働意欲を駆り立てるためにもその形が都合がよいものであると説明していたということでした。しかし、徐々に局数も増え、営業に安定性が見えてくると、現状では何としても物足りなさを感じているのが、このごろの彼の様子なのです。それを受けてかどうかはわかりませんが、センターでは数年前公共機関が週休二日制になるのを見越して土曜日もゼミ日に組み入れました。結果は予想以上の反響で、徐々に少しずつ現在のシステムが定着したのが、このCAN進学センターなのです。ところが、最近ではその体制でも、代表はなぜか不満を覚えるようになり、いっそのこと毎週全ての曜日を授業日にし、これまでのJUKUにない徹底した指導のもとに公教育に一歩も引けをとらせぬ教育機関につくりあげることはできないものかと考え始めているらしいのです。といっても代表はいわゆる、「教育」というものにこだわりはなく、むしろそんな概念はこれからのJUKUにとって不要なものになるとも思っているようです。父親や母親の望むもの、それは取りもなおさず子どもたちの学力を最大限に伸ばし、今ある力以上の本人の希望する中学や高校、大学に合格させてやることであり、それを彼らJUKUに携わる者たちが外部へのアピール力として活用するだけの時代はやがて終わりを告げるだろうというのが彼の最近の持論です。すなわち、少しでも実績を上げ数字を確かなものにし、組織全体でそれに応じ拡大しながら、周囲からの信頼を勝ち得ていく。それにはもっと本質的な大衆の欲求をそそるカリキュラムの編成が必要であると考えています。総司令官閣下、そのためにもセンターでは、常務瀬上がやはり最近、またもおもしろい案をだしていると言います。その案を代表片桐も、さらに押し進めなければならないと考えている最中なのです。それは、以下のようなものです。
 センターが土曜、日曜制にしたまではよかったのですが、もう一つ他のJUKUとくらべ徹底した違いというものが見当たらないというのは、今申し上げました。そこで思いきってセンターをどこかさらに環境のいいところに腰を据えさせ全寮制にしてみれば、というのがこの常務瀬上の考えなのです。常務が代表とわずかに違うところは、JUKUが成績を良くしたり問題の少ない子ばかりを見ていくことそのものも、やがて終焉を迎えるだろうという点にあり、こちらにもそのことは綿密に記録されております。それは、現在抱えているこの辺境の地域における児童数の減少と公教育の現場の荒れが表面的には受験体制を変えていくことに間違いないからでもありましょう。しかし反面、親のこれまで積み上げてきた価値観にそうそう急激な変化があらわれるとは考えられないこともまた事実な点があげられます。本来、自己の存在というものを人との単純な相対化以外確認できない人間の心情が、それほど簡単に変貌することを期待できないことは、代表や常務が嫌というほど知りつくしていることでもあるのです。人が 一流 に対して付加価値をもって向かわせないのであれば、それみよがしに、ますます一極集中がベールの内側で氷に亀裂が走るがごとく急速に展開されるであろう事態が出現することは両者とも計算ずみですし、覚悟のところです。その中にあってわずかづつではありますが、JUKUの在り方そのものが現在変容の過程にあることもまちがいないわけです。閣下に申すまでもありませんが、もともとこの辺境の地にあって、JUKUの生きる道が『受験』にしかないと断定してきたことは、わかりきった常識の論理の範囲であったことはいうまでもありません。それぞれに新しい教育を目指し数え切れないほどのJUKUがこれまでいくつも誕生しながら、受験体制に吸い取られ、あるいは手助けし、いつのまにか開き直ったかのように子どもたちに追い討ちをかける形で崩れていった事実が、このJUKU産業の避けることのできない宿命だったのです。瀬上は要するに、そんなJUKUが今までに収容しきれずにいた子どもたちを何とか吸収する手立てがあるはずだということを苦慮している一人だったとも言えます。代表とはまるで正反対な考えを持ちながらも彼らの言うことはセンターをさらに巨大にするという一点においては、両者とも遠い円周上で結ばれていると言わざるをえないでしょう。まず、そのような常務の実験的な試みとして職員の研修所や保養所、それに子どもたちの合宿所を兼ねた大がかりな施設ハウスがこの地域の西はずれの島に建設中であり、まもなく完成予定と言う情報が既に入手されてきております。
 閣下、全てはこれからは時間が決定していってくれることでありましょう。このセンターの報告は、第一段階目を終え、今二段階目にようやく差しかかっているところです。真の意味で閣下にとって意味ある報告文になるかどうかはこれからの叙述が決定してくれることであると、私たちは、現在、考えておる次第です。 

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