「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『エデュケーショナル・スノウ』その十一

              第十の報告
 閣下、ひきつづきあのふたりの子どもについて、しばらく報告します。
 『レモラ・ハウス』にいるときの綾や健一にとっての疑問。それは瀬上が、ほんとうに自分たちの味方なのかどうかということでした。弟の健一は、自分の父親がいなくなったことを当時まだ二つだったためよくおぼえてはいませんでした。ところが、このごろ少しずつ、記憶にさえ曖昧なその像が実物か幻かわかりませんが、次第に深く大きくなっているような気がしていたそうです。
 姉の綾も、健一のその悩みを聞いたことはありましたが、別にはっきりとは答えず、そのときも『レモラ・ハウス』の一室でベッドの隣に据えられた机に向かい座っていました。 その日、海岸からもどってきたとき母親と瀬上は何を話していたのか。ずいぶんふたりとも怖い顔をしていたのが印象的だったことを綾は記憶していたそうです。姉弟にとってこの場所が、海も近く、とてもお気に入りのところだったのですが、もう二度と来たくないところに変わりつつあったこともまた事実のようです。
 健一がそれから話しかけても、綾は、なかなか喋ろうとはせず、ただ、「うん」とか 「そうね」とかを合間合間に繰り返すだけです。
 やがて、健一が話し飽きたのか、自分のベッドの上で軽い寝息を立て始めると綾は、作文を書き始めました。書くと言っても八畳ほどの広さのリビングふうのその部屋には、さほど大型ではないにしろ、性能の良いコンピューターが机の正面の壁に埋め込まれ、どこと結ばれているのか定かでない複雑なネットワークで繋がれた端末装置のワークステーションが一台あるきりです。それにテレビ電話らしきものも置いてはあるのですが、綾はまだそれを一度も自分から使ったことはありませんでした。ただ決まった時間に合図が来ると母親や常務の瀬上がそそくさとやってきては向うから送られてくる資料や画像を機械から取り出し、何やら幾枚もの問題のついた紙やその回答用紙となってプリンターから変換されたものを、彼女が解いたり、あるいはそのままリプレイに写った問題を目の前に提示されやらされたりしてきたのが最近の彼女の日課だったのです。とくに瀬上は、綾についてのスタッフとの学習の打ち合わせはそこに備えつけてある電子メールでもやっていました。それら全てには、いよいよ間近に迫った『レモラ・ハウス』開寮に向けての最終的な予行テストとチェックも兼ねられていたふうなのです。
 とにかく、そこに来るたびに頻繁に作文をつくることをやらされていた思いが綾にはありました。そしてこの時間になると自然に書く習慣がついてしまっているのか、コンピューターの画面を目の前にした綾は、別にあれこれ考えもせずキーボードに向かうのでした。それまで心なしどんよりと曇っていた眼は、気のせいかその黒い表示画面に白抜きの文字を刻みつけようとキーを打ちすすめ、それに従い埋もれていた宝石を磨くときに浮かぶ光沢にも似た輝きを一段と瞳は増しながら、さっきまでの無口でおとなしいだけの彼女ではなくなっていることがすぐに誰の目からも見て取れるほどでした。
 閣下、その作文は次のような書き出しからはじまりました。
  姉、綾の作文の書き出し
 『わたしは、遠い将来ずっと生きていたとしても、今日も明日もあさっても、その次の日も、その翌日も翌々日も、もう二度と虹は見ないだろう。そのことはわかっているのだ。はっきりとした理由は今の私には言えないが、そんな気がする。
 わたしがどうして学校へ行きたくなくなったのか、瀬上先生もお母さんもほんとうのことは知らない。私が黙っていたからだ。話したくなかった。これからも当分の間は誰にも話さないつもりでいる。でも今は、不思議に正直に言えそうな気分になっている。どうしてだろうか。自分でもよくはわからない。私が自分で自分の命を終わらせてしまおうと、今考えていることも、その理由の一つなのかもしれない。
 私は、お母さんの時々使う睡眠薬を家からこっそり持ってきている。お母さんは私を誰よりも信頼しているから、あまりそれを隠しておこうとはしなかった。もちろん人目につくところに置いていたわけでもなかったが。私はお母さんの持ち物なら大体どこにどのようにしまってあるのかほとんど知っている。
 学校に行かなくなったわけをちゃんとここに書く前に、どうしてもこのことだけは言っておきたいことがある。それは、わたしはけっして、人からいじめられたりして学校へ行かなくなったわけではないということだ。誰に悪口を言われたのでも、いたずらをされたのでもなく、わたしはわたしの意志で行かなくなった。そのことをこれから書こうと思う』
 綾は、そのとき藍色の箱に詰まった薬を持ってきていたポシェットから取り出しました。彼女のつぶらな瞳がその表面をなぞるようにしばらく見てから、またディスプレイへと移されました。
  作文のつづき
 『健一が隣ですやすや眠っている。その眠りをじゃましないためにも、わたしもこの薬を一粒ずつ飲みながら作文を書いていこう。
 わたしが、あの変な感覚をおぼえ始めたのは、小学校四年生のころからだった。おじいちゃんが死んでからだから、おとうさんがいなくなって五年ぐらいが過ぎていることになる。わたしだって小さかったのだし、健一と同じようによくはおぼえていない。ただ、今計算するとそういうことになってしまうのだ。
 変な感覚というのは、学校まで歩いて登校しているときははっきりとはしなかったのだけれど、そのもやもやは教室に入るといっぺんに羽をつけ、わたしの頭の中をちょうちょになって舞いだした。そのうちどこか花のようなところにとまり、今度は突然絵の具の吹き絵をかけられたようにいっぺんに真っ白な風景に変わってしまったのだ。それからは、すべてがおかしくなってしまった。まず友達の顔を見ても、いつもは話かけられれば、おはようとあいさつするのに、その相手の顔と声とが、日頃わたしの知っている子とはなんだか違うように思えてきて、近よるのも急にこわくなってきた。先生だってそうだ。それまで、勉強のときや遊んでいると、とてもやさしくて好きな先生だった人が、その日から少しづつ先生のそばへ近づくことができなくなり、向こうからひそひそ話さえ聞こえてくるようになってしまったのだ。話し声の内容は、もちろんわたしのことなんだけど、ぎょうぎが悪いとか、勉強してないとか、遊んでばかりいてはだめだとか、初めはそんなことだったんだけど、そのうち、そんないかにも注意されそうなことは一つもなくなり、あなたはなんでここにいるんだとか、名前は何といったっけとか、もう遅いから早くかえりなさいとか、当たり前みたいだが、でもはっきり言ってピンとこないことを何回も何回もしつこいくらい小さな声で言ってくる。わたしもついきょとんとなって、そのたびに考え込むのだけど答なんて当然見つからない。わたしの名前は藤木あやよ、このクラスの子で、出席番号は八番で、家はあそこで、昨日も来てたでしょうって言おうとするのだがどうしてもそれができない。そのうち日が暮れかかってきたような本当にそんな気がしてきて、帰らなくちゃいけない気になり家に戻った。それが最初にそんな事が起こったきっかけだ。 その日の夕方、わたしは、お母さんからたっぷりとしかられた。担任の先生が電話をかけてきたからだ。お母さんと先生が電話でなにを話していたのかはよくわからないけど、お母さんは、泣きながら、その後わたしを今まで見たことのないぐらいこわい顔をしてしかったのだ』
 この時綾は、箱から取り出した瓶から三粒ほどさらに薬を取り出し、一息つくようになんの気なしにそれを一つずつ飲み干しました。そうです。彼女がこっそりもってきていたのは、彼女自身がそのとき作文で書いていたようにまぎれもない睡眠薬だったのです。彼女はそれが、ちょうど喉のところにちょっとだけつかえ、じっと止まっているように思えたのか、首を少しだけ振り、喉を軽く動かし唾といっしょに胃の中へ思いきり落とし込んだようでした。あの錠剤を飲むとき特有の、きっと甘くて少々苦い匂いが鼻先にのぼってくるような変な気がきっと彼女の器官にもたらされたことでしょう。そして、まだ眠気がやってきていないのを躰全体に確かめた彼女は、キーボードを小気味よく叩きながら、作文をつくり始めたのです。文章はつづきました。
  綾の作文のつづき。
 『それからは、お母さんも先生もわたしに対して厳しい態度をときどき見せるようになっていった。でもそのことを、わたしはあまり気にはしなかった。かえってそれまでやさし過ぎていた頃より好きになっていたくらいだ。そうやってくれることで、あの変な感覚をなくしてくれることになりさえすればと、わたしはいつも心から願っていたのだ。
 これだけは今でもはっきりと覚えているけれど、わたしがほんとうに学校へ行かなくなったのは、あのリレーのときからじゃないかと思う。あのときも、あの変な感覚が突然、急に悪くなったお天気のようにわたしの頭の中をおそってきたのだ。
 小学校の最後の年だった。わたしたちの学校では、月に一度全校で学年ごとにクラス対抗のリレーが行われている。わたしもその月は、選手の順番が回って来ていてどうしても走らなければならなかった。わたしは、何となく不安だった。あの変な感覚が、その日はずっと朝起きたときから始まっていたからだ。それがいよいよ、それまでなんとかしておさえていたにもかかわらずバトンをもらう前になって、とうとうあばれだしてしまったのだ。
 わたしは、白い線の上に五人の他のクラスの子といっしょに立っていた。クラスのみんながわたしを応援してくれているのがよくわかった。でもその声がなんだかよく聞きとれない。最初は、きっとわたしは気のせいだと思った。みんなが一度に言うからだ。そんなことはよくあることだ。心配することはない。それでも反面不安にも思っていた。みんなは、ほんとうにわたしのことを応援してくれているのだろうか。内心は、ころべばいい、抜かれて一番びりになればいいと思っているんじゃないだろうか。そんなことを考えているうちにあの変な感覚がもうどうしてもおさえきれなくなってしまったのだ。わたしがバトンをもらう相手は、もう、すぐそこまで来ている。わたしはどうしたらいいのか迷った。わたしの頭の中には、早くももう真っ白といった感じに、少し濃ゆめの幕が下ろされていた。足音がばたばたと聞こえてきている。わたしの手には、もうじきあの冷たいバトンがわたされるのだ。
 そんなときだ。たしかに声がしたのは。
 声はわたしに、いつもよりやさしく、あなたにはそこにいる理由がわかっているのって聞いた。わたしは、いいえ、と答えた。そしたら声は、つまらなさそうに返事をしてくれたのだ。
 そう、だったら立っていることはないわ。すわりなさい。
 わたしは、走り出すことも、そのまま立っていることもできず、その声に、はい、わかりましたよ、て答えるようにバトンをもらうすぐ直前で、その場にしゃがみこんでしまったのだ』
 綾は、眠ってしまいました。幸運なことに、一粒づつ薬をのんでいくという発想は、やはり中学一年生の考えつくことでしかなかったのです。致死量にいたるそのはるか手前で彼女の思いはあっけなく断たれてしまったのでした。彼女は、次の日の朝いつもより遅く、多少寒気を覚えながら眼を醒ましたに過ぎません。風邪を引いていたのです。
 目を覚ましたとき、弟の健一がどうしたのか、心配そうに綾を見つめていました。
 「あら、健一、おはよう」綾も、なぜか眠っているときからそう言いたくて仕方がなかったように最初に笑顔で答えました。背中には毛布が掛けられています。
 気分はどうか弟がたずねると、綾は、それにも笑顔をつくりだいじょうぶであることを伝え、毛布をかけてくれた健一に対し、今までにないくらい丁寧にお礼を言いました。綾は自分でもその日は、思っていることがすらすら言えるのに驚いていました。いったいどうしてしまったのだろうか。綾はほんとうに滝にうたれたようなスッキリした思いだったと後で作文にも書いています。昨日と較べ何かが自分の中で変わったような気もしましたし、やはり何も変わってはいない重い気持ちがしないでもなかったそうです。とにかくそのときは、これまでより少しはましな気分だったということかもしれません。綾は、そのときそんなことを考えながら椅子から立ち上がりました。時計は、九時半を差しています。コンピューターの方は、自動操縦が働き電源は切れていました。まだ薬が机の上に置いてあり、健一がそれに気がついていないことを知って慌てて引き出しの中へ仕舞い込み、片手で軽くコンピューターのスイッチを入れると念のため消去ボタンを押しました。
 綾は、その日が日曜であったことに気づき、健一に外に出て遊ばないかと珍しく誘いをかけました。
 窓から外の様子を窺っていた弟の健一は、姉の元気な声を聞いて安心した様子だったそうです。扉を開けると、健一が小さな声で空を見上げ言いました。綾もそれにつられ空を見、掌をだしてみました。部屋の中からはわかりませんでしたが、確かにそこに湿っぽい冷たいものが落ちていました。閣下、実にその西の島にもその季節には少々早く、雪が、この地域すべてを静かに覆うようにちらほらと舞っていたのでした。

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