「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『エデュケーショナル・スノウ』その十ニ

            第十一の報告
 閣下、報告もいよいよ大詰めになってきましたが、ここに、ある密室でのCAN進学センター代表の片桐と、この地ではかなりの実力の持ち主との会合の資料がとどきましたので御覧いただきたいと思います。これにより、この辺境の地の教育の根幹がおよそどのように動き、またどのような方向に進もうとしているかがうかがい知れると思われるからです。
 初め、片桐に対して、老人は何度も念を押すようにほんとうに今度のセンターの計画がうまくいくのかどうかたずねたそうです。
 その老人は、年齢のわりにはまだ皮膚の艶もあり、短めに刈った髪に白髪がまばらに混ざる程度で、片桐と向かい合って座っていると確かに親子ほどの関係には感じられましたが、その話の節々でみせる挙措動作は、その関係をひと回り越える威厳と若々しさを保っていました。ふたりの間に置かれた南米産のマホガニーの分厚いテーブルの表面がいっそう際だったように上部からの照明を受け、光り輝いていたそうです。
 片桐は相手に、既に、R地区のほか二箇所ほどの値段も手頃な人里離れた場所に土地を買い求めていることと、さっそく西の島では、その一番隊として来週から八十六名の子どもたちが実践に移っていくことになっていることを報告しました。自分たちの開発したシステムと総合力で、センターもついに第二段階目へと突入していくことが片桐自身の中に興奮となって輪のように広がってきていることがその話しぶりからも充分うかがえます。そのためにも、これまでなにかと協力してもらったていたのが、今、彼の目の前にいる老人であるらしいのです。この調査書を見ながら、そのことが少しずつ私どもにもわかってくるのにそう時間はかかりませんでした。
 老人は嗄れた声で、自分としても今の教育に不満があって片桐に協力してきたこと。学校では教師たちが我がもの顔でふるまっていて、問題のなんのそのと言いながら、その解決の糸口さえ見つけきらずにいること。そのために、そろそろ教育にも自分の方から積極的に手を出そうと考え、片桐が示したことに興味をもちながら自らも実践しようとしてきたことなどを一気に話しました。老人自身、自分の配下の何名かの部下が情報を知らせにきたときは半信半疑でしたが、それでも片桐と会って三年もせぬうちにセンターが現在のようになったのは彼の期待していた以上のことで、その成長はかなりの度合いで認められると、最後に片桐に対し強く賛辞を送ったことも、閣下、ここでつけ加えておかねばなりません。 老人は、それからしばらくして少し強くしわぶきしましたが、それは喉の調子を整える単なる咳払いとも取れました。
 彼は、以前からこう思っていたようです。それは、閣下、私どもも充分驚嘆すべき事実として浮かび上がってきています。これから彼の話したことを閣下にくわしくご説明いたしたいと思います。
 二十年ほど前の一時期、この地域で流行ったあの『コウナイボウリョク』というものを閣下には思い出していただきたいのです。あれは大方は生徒たちのあの頃の学校教育に対するつまらなさを如実に物語っているものだと世間では評されていましたが、そのかくしゃくとした老人は、そうではないと信念をもって考えていたようです。つまり彼は、常日頃から産学一体となった教育を義務教育の段階か、もしくはもっと早くからやるべきであると教育界に進言している一人でした。しかし、それも老人のあまりの傲慢さからかなかなか取り入れてはもらえなかったようです。政府の『キョウイクシンギイイン』に、だいぶ彼の息のかかった人物を送り込んだりもしていたそうですが、いかんせん思惑どおりにはなかなかことはうまくいきません。そこで彼は、ついに思い切って発想の転換と言うものをはかったようなのです。
 それは、彼自身が今まで、あまりに公教育にこだわり過ぎていたのではなかったかということでした。すると突然視界がひらけてきたように思ったというのですから不思議ではありませんか。JUKUというものがあるではないか。どうしてこれまで眼を向けなかったのか、そう老人は、目の前に一つの抜け落ちていた穴ぼこが見えてきたように思わず喜々としてきたそうなのです。
 そんな相手の話を聞きながら、片桐は、固唾をのみました。老人の目は、深い谷間から岩肌を照らすように鋭く光っていたそうです。老人の考えは、まだまだつづきました。
 彼は、教育について少し自分でも調べたり実際に見にでかけたりして、ある学者の考えついたモデル学校がどうも気に入ったようなのです。そこでは、あの、今ある学校での教育とはまったく違った枠を取りはらったような、つまり具体的には実際の教室の壁をなくしてだだっ広い突き抜けの部屋や広場や空地で、子どもたちには教科書の代わりに釘や板切れを持たせて作業をさせるといったものだったのです。子どもたちの小さな手で板と板とが組み合わされトントンタントンと甲高い音が響いてきて鋸の引く音や金槌の叩かれる音が、今にも彼の耳の鼓膜にはとどいてきそうなくらいだと言います。老人はそのことを知ったとき、一見それは本来の学校の姿をまったく無視したように映るかも知れませんし、またそういうふうに取られてもいるそうですが、ほんとうはそうではない、別の本質的なものだとすぐに考えついたそうです。あれほど世の中の理に適ったよく計算された教育は、ほかにないと今では強い確信さえもっている様子です。
 老人は片桐に、はっきりその場で次のようなことを明言したそうです。そのモデル校は一つの例えであって、その学校が教えているものは直接に金槌や鋸を取れといっているのではけっしてなく、学校の内側だけを見ていてもこれからは駄目だと言っているのだ、ということを強く力説したそうなのです。社会と繋がりを持ち、系統づけていかなくては美しく健康な教育などできるはずがない……そう老人は滔々と話しつづけたのでした。
 老人の論理にしたがえば、子どもたちには早くから適度な労働とそれに結びついていく学習が必要だというのです。そうすれば、彼としても援助を惜しまないでもない、そう片桐の顔を真正面から見すえながら言いました。さっそくそれが将来の役に立つのであれば、混乱する社会の中でも、子どもたちは目標を見失うこともないだろうと彼は考えているようなのです。
 彼流に言えば、回りを見渡せばどうせあれこれ言いながらもほとんどの者が、おさまるところにおさまってしまう、それがこの地域なのだそうです。時代がながれていても本質的にはそう変わることはなく、にもかかわらず学校の方はその本質を見ることもなく自分たち自身にはまったくの進歩をはかろうとはせず、それどころか最近では子どもも集団でくるのなら教師も集団でいこうなどと目には目をのやり方で、ただ闇雲に押さえつけにいってる。それがまったくの無能な方法であるいう気がして仕方がないらしいのです。老人は、そもそも教師の今の質も問題なのだと吐きすてるようにつけくわえていました。あの校舎のつくりから一つ一つの屁理屈張った決め方まで全部がどうも外にいる彼らのような人間にとっては、ニーズに合っていないと言う感じを受けつづけているようなのです。今の中堅あたりの教師は、やたらと偉そうなことを子どもらに吹き込んでいるが、いざと言うときはなにもできないし、すぐに見せかけだけの徒党を組みたがるのはどうしてなのか。彼は現状に対して強い怒りさえもっているふうにその報告書を読みますと見えてきます。老人は、老人なりに教育不信は大きいのです。何度も申し上げたように再三、そちらの筋には彼らの会合で話し合った意見を伝えてはいるそうですが、一向に埒があかずほとほと業をにやしてしまっているのが現在の老人の心境です。教師を選ぶ試験制度からしても、過去、この地の動乱を生き抜いてきた彼からすれば手ぬるいとしか思えないわけです。まるでそれは、組織と個人との狐と狸のだまし合いっことしか思えないようなのです。
 報告によりますと片桐は、それには慇懃に返事をかえしていっています。閣下、彼がどれほど今回、この老人との会合に神経をくばっているかがよくおわかりたただけるかと思います。その証拠に、「まったく、おっしゃるとおりです」という言葉を、彼は何度も呪文のようにつぶやいているのですから。彼は、そんな老人の難問、疑問に対して、自分たちとしても、そんな学校からはみださざるを得なかったり、嫌気がさした子どもたちにチャンスをもう一度与え、救ってやるというのが目的であり、そのためにも、今度の子たちには学校の卒業証書や学歴に変わり得る魅力ある物件が必要であることを、老人の深い目なざしを見つめながら説明していました。
 老人は、それに対して、つまり自分たちと結びついて、その子たちの中から使えそうな者を優先的に採用してほしいという片桐の申し出を素早く理解したようで、表情は何一つ変えず淡々とした態度でうなづき返していった様子です。
 片桐もそれに対し、そのかわりセンターとしても彼らの注文にできるだけ応じた子どもを造り上げていくつもりであることと、両親に対する説得力の方も、そのような目的があれば人生設計が万全であることから多大な安心を得るであろうということを順序よく話していきました。多少悪い条件であっても、彼ら老人たちの持つ大きな組織に将来拾ってもらえるとなれば、自分らの子をセンターに来させる甲斐があるというものです。というのも、総指令官閣下、今度西の島『レモラ・ハウス』で実践に移る子どもたちは、近くの進学校に入ることもできずにセンターに頼ってきている、社会から見ればどうしようもない落ちこぼれた生徒たちばかりなのです。センターでは、シニアの受入れも万全な体制であることから、まずは当面中学までは面倒を見てやり、またその後はそれから考えることも補足しながら片桐は、一気に捲し立てました。老人に、そこではとにかく自分たちの勢いというものを感じさせる必要があることも彼持ち前の計算から素早く読取り、それゆえにそのようなやりかたをとっていったわけです。それは、即、センターそのものへの信頼に結びつくはずなのですから損はないわけです。まさしく閣下、このやりとりが報告文を定期的にお届けしている私たちと閣下との関係にも何か似ているところがあるように感じられてくるのは私のただの思い過ごしでしょうか。
 老人は、最後に片桐に対し、それがうまくいけば大したものであり、自分たちとしても今の教育制度と、そこからつくられてくる子どもにほとほと愛想が尽きていたこととが頂度重なっていたことを繰り返し述べ、そろそろなんとか手を打たねばならないだろうと思っていた時期であったと結びました。まずは、五年後あたりの片桐たちの自負する第一号の子どもを見て評価を下す心づもりであるらしいことがその相手の心理を奥深く抉る目なざしから伝わってくるようだったと調査書にも記されています。老人としましても、企業体内での教育が今以上に効率よくできることを期待しているわけでしょうし、そのうちこれまでのような学校の卒業証書より片桐たちの運営するセンターを出た証書のほうが、はるかに値うちあるものとなるかも知れぬことを、まったく誇張ではなく飄々とした口ぶりで話したわけなのです。
 しかし、そこは片桐です。彼もまた自分を抑えることはわきまえていました。
 そんな老人に対して、自分たちとしても今までどおり子どもたちをより幸福な状態へ導くために、できるだけ細かく単元を組み立て訓練していくことだけを考えていくつもりであることを再度確認しました。そして、そのためにも綿密に構成されたカリュキュラムは、彼らセンターにとってはただの仮の姿であって、隠れ蓑であることも打ち明けました。問題はカリキュラムではなく、そちらにとっても私たちにとっても、より自分たちに役立ってくれる人間を育てていく事、それが全てであると彼は多少強く、しかし冷静に強調したのです。
 片桐は、その男の家を辞すとさっそくタクシーを拾い本部へと急行したそうです。
 携帯で『レモラ・ハウス』との連絡をとるとさらに彼は上機嫌になりました。もういつ開校してもいいと言う、彼にとっての右腕の常務、瀬上の自信に満ちた声が聞けたからです。そこで、つい気が緩んだのかさっきまでの男との話を瀬上に知らせたことは、今回この計画にとって彼の最大の誤算であったかもしれません。
 今の彼の心境をたとえれば、やっと三年がかりの恋が実った一途な若者といった感じであったはずです。ようやく影の大物も彼らセンターが今までしてきたことを認めざるをえなくなったにちがいないのです。当然、あちらも目をつけているのはCANだけではないと思われますが、これからは、どちらがあの老人たちの気に入った子どもを造るかで勝負は決まってくることでしょう。片桐はそのことも瀬上に注言として発することをわすれてはいませんでした。最後は、閣下つぎのひと言です。この地特有の労をねぎらうような調子でその電話は終わりを告げました。
 瀬上君、『レモラ・ハウス』の件よろしく頼むよ。
 オツカレサマ。
 それが今思い起こせば、片桐の瀬上への最後の言葉だったのです。

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