数日前、ふくし生協の中村倭文夫(しずお)さんから電話がありました。 「ちょっと5分ほどいいですか?」 どうぞどうぞと返事する私に、何かさっぱりした声で、 「11月15日でふくし生協を退職することにしました」 「……そうですか。それはほんとうにお疲れさまでした」と労いの言葉を挟むやいなや間髪をいれず、 「水俣へ行きます」 ときっぱり。 「水俣?」 「ホットハウスで……」 「ああ、加藤さんたちの」と私は胎児性水俣病の支援をされ、現在は社会福祉法人「さかえの杜」を母体に運営されている加藤たけ子さんの名を上げていました。
加藤さんを知ったのはもうかれこれ15年近く前になるでしょうか。 はるばる水俣から開所して間もない「夢屋」を訪ねてこられ、胎児性水俣病の方たちと夢屋のメンバーは親睦を深めたのです。 加藤さんはその後も、私が『トライトーン』を発行した折は、「読みましたよ。おもしろかったというか、ほんと、私たちがぶつかっている問題も似てるんです。だから周囲の人にも読んででほしいから10冊ほどください」と電話を下さったり、こちらからも『夢屋だより』を欠かさず送っていますが、さすがに中村さんの言葉には驚きを隠せませんでした。
「そうそう、その加藤さんたちとNPOを立ち上げ、胎児性水俣病の人たちのこれからの介護支援をやっていくつもりです。また一からの出発ですよ」 中村さんは、既に還暦を数年前に迎えられたはず。またまた水俣の地で、介護支援事業を立ち上げていこうとその意気込みがひしひしと伝わってきます。 「名前は決めてるんです。『浜千鳥(はまちどり)』」と高らかな声が次々と私の耳へ。 「じゃあ、今度はこちらが水俣へおじゃましますので、そこでぜひ会いましょう」
不精な私は何度、この言葉を加藤さんにも言ってきたことか。(実際年賀状には毎年書いていて、一度も行ったことがありません。トホホホ……)でも、こうやって言い続けていれば、いつか夢屋のメンバーを連れ伺う日もくるかと微かな希望も込めているのです。
「ええ、待ってますよ。場所は昔ホットハウスがあった二階です。当分単身赴任です」
受話器を置いた後の何とも言えぬ余韻と感慨……久々に驚きとともに、あれこれ中村さんとの出会いと御縁、そしてこれからの自分自身の生き方もを考えさせられた一報でした。