「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『夢屋だより』(2022.11/24 初冬号・133号)からの文章です。

〇夢屋より皆様へ、初冬のご挨拶をさせていただきます。
2022.11.24  作業所夢屋代表 宮本誠一
季節も11月後半となり、スーパーにはクリスマスソングが流れる季節となりましたが、皆様お変わりありませんでしょうか。コロナ第8波到来など、まだまだ油断ならないようです。どうかくれぐれも健康を崩されませんことを祈るばかりです。
朝の児童の『見守り隊』に加えさせて頂き8か月が過ぎ、時間がたつのをより早く感じます。季節折々の風景もですが何より大きいのは子どもたちの〝心と体の成長〟です。挨拶をあまりしなかった子がいつの間にか大きな声で返してくれたり、心もとなかった一年生の足どりがしっかりしていく姿に〝時〟を感じずにはいられません。また11月3日、蔵原地区のお薬師様の〝よど祭り〟が地域の皆さんの力で開催され、夢屋も行燈を奉納し参加させて頂ました。さらにはメンバーの笹木博康さんのお母さんはひまわりなど花の栽培をされているのですが、その中の出荷時期がずれて開花したものをたくさん分けて下さいました。年が明ければ夢屋も29年目、健康と実りに感謝するとともに、改めてこのようにこれまで温かく支えて下さいましたお客様、地域の皆様、行政関係者を始め、すべての方々に深く感謝申し上げる次第です。
さて、私事でありますが拙作の応募小説が九州文化協会主催の文学賞で熊本地区優秀作に選ばれました。この作品は夢屋を開所するきっかけとなった青年がパニックになったとき相手に向かって〝唾を吐く〟行為の<意味>を私なりに考えて書いたものです。彼は24歳で亡くなり、生きていれば48歳、ちょうど2倍の時間が経ったことになります。開所直前、彼が入所していた施設では唾を吐く罰として廊下の拭き掃除をさせたり、こだわってしつこく質問してきたとき、皆で相手をしない(つまり無視する)というルールをつくっていました。私は保護者とともにそのようなやり方は人権侵害はもちろんですが、何よりさらに本人を苦しめ混乱を増すだけだからすぐにやめてほしいと訴え、「大丈夫、大丈夫」となだめたり、「そうだねえ、いつかわかるといいねえ」と寄り添う返事を粘り強くしてほしいとお願いしました。時代は30年近く前です。80名を越す入所者支援を限られた人数と時間で行わねばならぬ職員の方たちにとっては、そのように相手を一人の同じ人間として見る発想はまだまだ薄く、首をかしげるふうでしたが、一人二人と実践して下さり、彼の状態だけでなく他の入所者との関係もよくなるにつれ、いつしか全体ミーティングでも確認されるようになり、共通理解へとつながっていったのです。もちろん波があり、効果がないときはまた新たな課題も生まれて来ますが、少なくとも当事者主体に一緒に考えようと言う姿勢さえあれば、働く現場や立場は違おうともいつしか理解は広がり、道は開けてくると確信させてもらった出来事であり、今も教訓としているところです。
それでは11月から1月までの行事(予定も含む)をご報告させていただきます。
11/1 宮本の応募小説『虹色の川』が九州芸術祭文学賞の熊本県地区優秀作に選出。(3度目)
11/3 蔵原のお薬師様の〝よど祭り〟に行燈を飾り、ともに祝い地域の方々との親睦をはかる。
11/8 阿蘇西小学校の校外学習の打ち合わせ。 11/16 校外学習(児童5名、教職員2名)。
11/17 阿蘇市人権フェスティバルに宮本が参加。副代表の竹原は民生委員として参加。
12/21 忘年会(昼食をオルモ・コッピア)。
12/27仕事納め(大掃除)。
1/5 仕事始め。
〇『憂鬱な通院日!!』       中島 地利世(チトセ)
11月に入り【夢屋】では、阿蘇市内の小学校から今年も「職業体験」という依頼がありましたが、私は母の通院日と重なり参加できないことが増えました。以前は用事が終わった後に遅れて参加する方法をしていたましたが、今は病院の時間がほぼ一日かかり、宮本さんが「思い切って丸一日休んで貰っても大丈夫」と言って下さり、通院日の日はお休みする事にさせてもらっています。それで今回は、その日1日の様子を書いてみました。
朝6時に起床、身支度をし、母の家に入ったらまず様子をチェック、紙パンツを替えた後に血圧測定と体温も測り7時半の薬を飲ませます。たまった洗濯物をし終えた後、母に朝ご飯を食べさせ、8時半に服薬です。そうしている間に夜勤明けの妹が帰ってきて、仮眠を起こさないように静かに移動し洗濯物を干し、病院から帰宅後すぐ食べれるように昼食を用意しておきます。既に時間は10時少し前…その頃には妹も起き母も自力で起きあがれるくらいに薬が効き始め(時々、全く効かず調子悪い時もあります)外出用の洋服を用意してあげると、だいたいの事はまだ自分で出来ます。受診予約時間が10時半なので、いつも20分くらいの余裕を考え、出るようにしています。病院につくと玄関で検温と消毒後、妹が受付をしてくれている間、私は母を待合席に座らせて見張る体制になります。そうしないと勝手に走って行くからです。看護師さんが来るとまず、血圧測定ですが、腕にベルトを巻かれた瞬間、「ギャーッ!助けて!!」と叫ぶ事もあります。当然、周囲の方はビックリする人や怖がる人…。そんな時は私達がひたすら謝り、母の様子に慣れている看護師さんが空いている別室に連れて行ってくれます。その後 母の順番が回ってきて、診察室に移動しようとすると、逆に主治医の先生が変更した部屋に来て下さり、本当に有難いです。何とか受診を終え、薬を貰いに行く時間です。どちらかといえば診察より薬局の待ち時間の方が長く、長時間じっとしている事に我慢できない母が騒ぎだすので、妹が一人で貰いに行ってくれ、私と母は先に車で待機します。以前は、院内で待っていたのですが、母が騒ぎだして警備員に注意されて出て行かざるを得なくなり、そうなりました。11時になったら車内で薬を飲ませ「ニュープロパッチ」という貼り薬も付けておきます。ようやく薬を貰って家に帰りつく頃は12時。昼食を一緒に食べ、薬を飲ませ暫く休ませた後、今度は13時半にリハビリのために再び病院です。血圧測定した後、症状の進行具合をチェックして貰い、歩行訓練…指先バランス感覚の訓練等、いくつものコースがあります。15時になりようやく終えた頃には母もヘトヘト。趣味の音楽を聴かせながら皆でおやつを食べ、16時になるとまた薬を飲ませ、それでもまた調子が悪くなると寝せます。その間に私は買い出しに行って夕食の準備。母を起こし夕食を食べさせ、1日9回に分けて飲ませなければいけない服薬を終わらせていきます。19時の入浴でリラックスした後、寝る前に夜の血圧測定と記録。就寝はいつも20時半~21時です。母が寝付いた後片付けし、自分も入浴した後、家に帰ります。これで一日の介護は終了で、帰りつくのは23時近くになります。
時には母と口論もありますが、すぐ仲直りの繰り返しです。支えて下さっている周囲や医療従事者の皆様には、本当に頭が下がる思いで一杯ですが、少しでも長く自宅介護で一緒に暮らしていけたらと願っていますので、どうかこれからも母娘ともどもよろしくお願い致します。
〇8/22に「部落差別解消法」に関する学習会(一の宮中校区全員研修会)に宮本と竹原が講師で呼ばれたときの感想を抜粋しご紹介します。貴重なお言葉、本当にありがとうございました。
●担任の子どもに対し、自分がどの位置に立ち関わっているか考えながら聞かせて頂きました。
●竹原先生のお話で日常、共感性(つながり)をどれくらいもっているかドキッとしました。
●宮本さんの「立つ位置で言葉は変わる」「いじめや差別をなくし具体的に結果を出す」ことが〝信頼〟の一歩と言うことに抽象的な言葉で言い訳ばかりしていた自分に気づかされました。
●今、取り組んでいる三行日誌から私も始めたいと思います。
●気になる子の自宅に電話で連絡するときしどろもどろにならなくなったのは、少しずつ「〇〇さんが心配だから保護者と話してみよう」という気持ちの表れで、自分の変化だと思います。
●二人のお話を聞き、一番腑に落ちたのは熱量、愛情の深さです。児童や保護者と関わる時、自分はどの視点で発言していたのか、第三者のような視点では何も残らないことを実感しました。
●〝ぬくもり〟のある言葉を発する人になりたいと思いました。
●被差別地区のある母校に赴任した時、地区出身の友達が他の保護者に人権学習の必要性を必死に説いていた。そのとき教師である自分は何も言えず、自分に腹が立ち、人権意識の低さを思い知らされた。差別する側の者こそがもっと自分事として学習する必要があると思います。
●〝何かの時〟でなく〝何もない日常〟の中でどのように生徒と関わっているのか。生徒の何気ない一言や表情が伝えようとしているSOSに気づこうとしているのか。忙しさを理由に気づかないまま見過ごしたり見逃したりしていないか。自分を振り返ることのできた時間でした。
●昨年、学校で夢屋で働かれている人からお話をうかがった。代表が宮本さんだから辞めないで働かれているのだと思った。「自分の位置を考え続け、言葉や関係を築いて」いきたいです。
●常に背中を見られている子どもたちに何かを伝えていく立場である教師という職業の重さを自覚し、自分の一つ一つの言葉を大切にしていきたいです。
●「私」と「私たち」の違い。これは考えさせられました。社会の中で他者との〝つながり〟をどのくらい持っているかで考え方が変わるからこそ〝つづり〟の役割は大きいと思います。
●夢屋の運営で多々苦労があることや人の希望を育む場所であることを考えながら、私は教育現場の方で社会で大切にされねばならないものを見つけ、その実現に貢献していきたいです。
●お二人の講話を聞き、私たちが学生のときに学習した身分制度は間違っていたということを知り、勉強になりました。ぬくもりを大切にし、子どもと一緒に成長していきたいと思います。
●宮本さんの話でご家族の大変さの中、夢屋さんで支えられているとの言葉が心に残りました。
●今、不登校傾向の子どもと関わる中、どこかに「助けてあげている」という意識を持っていたように感じ、恥ずかしいです。子どもや保護者とともに歩める人になりたいと強く思いました。
●学生時代に部落差別の学習をする機会があったが、どこか他人事のように聞いていた。差別はいけないと心では思っていても、ではどうしたらなくなるのか、日々の生活の中で考えていたか。何もしないのなら差別する側の人と同じなんだと改めて考えさせられました。
●正直、今年度うまく仕事をさばけず、その日その日をこなすのが精一杯でした。自分の立ち位置を意識しながら、子どもの言葉をしっかり聞き、受け止めていきたいです。
●忙しい、時間がないと言う理由で、子ども一人一人と丁寧に向き合えていなかったのではないかと反省しました。この講演で学んだことを生かし、信頼関係を築いていきたいと思います。
●学校を退職しお話をお聞きし、かつての人権集会を思い出すとどこか〝やらせ〟になっていたなと感じました。竹原先生が話された学級の日常の取り組みが本当に大切だと思います。
●信頼の根幹には、自分自身にぬくもりと熱があるのかそこが一番大切だと思いました。「推進」でなく、「なくすかなくさないか」そこにこだわった自分でいたいです。
●自分自身、差別の現実に今年初めて向き合い、家族への見方が変わってしまう出来事がありましたが、実際に問題に直面しないとわからないことがたくさんあると気づきました。
●どうやって子どもや保護者と信頼関係をつくっていくのか。自分にたりないものは何だったのかと考えさせられました。もう一歩踏み込む強さ、本気度だったのかもしれません。
●まずは教師自身が「自分を語る」ところから始まると思います。この「自分を語る」ことが進路公開でもあると思います。自分を語れる雰囲気と環境づくりを進めて行きたいです。
●私は子どもたちにとって安心して話せる相手だろうかと不安になりました。でもそれはまだ〝つづり〟の実践をしていないことなのでやってみてまた改善していこうと思います。
●宮本さんとは教員時代からの解放研、初代夢屋建設の壁塗りの手伝い、連れの夢屋でのスタッフとしての勤めなど浅からぬ付き合いですが毎回、そのたびにお話には刺激を受けています。
●宮本さんが最後に言われた、「自分のお父さんのことを通じて初めて、夢屋設立時の青年の施設入所や我が子を入院させる際の親の切実な思いがわかった」という言葉にドーンと胸が叩かれた思いでした。私もまだまだわかってないのかと思いました。
●学校内で情報共有がほとんどなく、何もできたなかったかもしれないが、せめて情報だけは全職員で知っておきたかったと切に思います。家族のことも本当に個々人、色々あり、うちの家庭もあります。なのでそれを出していくことは全然恥ずかしいことではないと思います。
●三十年以上前に担任していた子どもやその保護者と現在も関わっており、それを大事にしながら、これからもつながっていきたいと強く思いました。
●竹原さんが見せて下さったつづりの赤ペン部分に胸が震えました。つづること自体が勇気がいることで、自分のことを伝えることはそうそう簡単にはできません。そこにあれほどのお返しを下さる、心を込めて先生がつづってくださる。勇気を振り絞って書いた子たちはまた励まされ、書いてみよう、伝えてみようと言う「力」と「安心感」が湧き出てきたのだと思います。
●子どもとの日々の関わりで心の変化のきっかけを作ったり深めたりできる人でありたいです。〝つづり〟は目に見えないものが見えてくる実践と思います。パンも楽しみにしています。
●以前、支援学校で関わっていた子と地元の学校で再会し、しかも生き生きとパンをもってきている姿に、こちらの方が反対に力をいただきました。
●20年前、竹原先生は部活に熱を上げていた私に「部活で勝つと嬉しいでしょう。もっと勝たせたくなるでしょう。つづりもそれと同じで書けば子どもが変わってきて、もっともっと書いてほしくなる」と指導して下さいました。その言葉を胸に個と学級をつなげていきたいです。
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