「共」に「生」きる。 in 阿蘇

〇『ジープニーに描かれる生~フィリピン社会にみる個とつながりの力』(風響社/西尾善太著)

〇『ジープニーに描かれる生~フィリピン社会にみる個とつながりの力』(風響社/西尾善太著)

「森の家・野菜ty(ノナティー)」をときどき利用下さる西尾善太氏(立命館大学大学院先端総合学術研究科特別研究員・PD)がこのたび『ジープニーに描かれる生~フィリピン社会にみる個とつながりの力』というブックレット《アジアを学ぼう》を『風響社』から上梓されました。

読んでいる間、私は戦後、米軍の払い下げジープを修理・改造して生まれたジープニー(「ジープ」と「ジットニー(乗り合いバスの形態)」を短めた語)のエンジン音や街の喧騒、人々の生活の匂いとともに何より西尾氏の意識の中をまさにジープニーが辿って来た歴史と合わせ、疾走しながら、自らの持っていた<概念>の型にはまった形成の根拠が一つ一つ覆っていく心地よい感覚を持ちました。なぜなら氏はジープニーを軸に、そこに描かれているグラフィックの意味するものへと問いを収斂させつつ、常に、「日本人」である<私>とは何かを考え続けられ、ジープニーやグラフィックとの関係性を探ろうとしておられるからだろうと思います。

〝あとがき〟にもあるようにアカデミックな弁証から意図的に距離をとり、既に一般に<知>の世界を凌駕している「結論」や「理想」といった<あちら側>から逆にたどり直されたにもかかわらず、あたかも<こちら側>から導き出されたかのように思わされている「客観的価値」なるものへ安易に陥らぬよう、フィールドワークとする個々の生活の足元の現場へ視線を立ち戻らせる頑ななまでの熱量には、氏の特異な資質とさらなる可能性と期待を持ちました。

「ある日、私もとろけ出したことがある。ジープニーのフロントガラスの風景が私と同化した、あるいは街が私となるような瞬間だった。そういう時間は知覚を感じない。ジープニーは関係に埋め込まれるだけでなく、関係を、人を、街を埋め込み、その内部へと包み込むのである(第2章「社会を結びなおすジープニー」より)

この体験を、ぜひ多くの読者の方々に「共感」していただきたい、そんな『推し』の一冊です。

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