人は自らの「死」を完全な意味では体験できません。
なぜなら、死が完了したとき、自らは死んでいるからです。
ということは、人が誕生から死までを各自の一生涯を通じた『全存在』ととらえれば、けっきょくのところ不完全なものとして(つまり、未来という時間がたち消えた中で、死までを含めたその実存を体感することなく)最終的には結末を迎えるということになります。
そんなところから考えたのですが、人がなぜ「つくって」は「こわす」活動を日々繰り返しているのかということです。
幼児期の積み木遊びもそうですが、日常生活を含め、多くの労働も、けっきょくのとろつくってはこわす、また新たにつくってはこわすという循環をくりかえしています。
福岡伸一さんなどに言わせれば、「ああ、それはね、そもそも細胞はDNAをつくったりタンパク質をつくったりとか、そんなつくりだす機能よりは、どんどん壊す仕組みの方が精妙にできるんですよ。だからその総合体の人間がつくってはこわすのも、また必然ですよ」などと答えてくれそうです。
そこで、私は最近、もちろんそう言った細胞のあり方を人間の生の現象へアナロジーとして結びつけることもできるでしょうが、ふと別のことを考えるようになりました。
それは、人間は自らが生から死までを不完全な形でしか体験できぬがゆえ、それを模倣する形で自己外の対象物を或る意味、自己へ取り込む(自己化するととらえてもいいです)目的も含め、誕生から消滅までのプロセスやそこから派生する感情や様々な事象をせっせせっせと刷り込んでいるのでは、と言うことです。
たとえば、今、増えつつあるペットも、生きる上での孤独や不安を「癒す」存在とよくとらえられますが、じゃあ、なぜ「癒されるのか」ということを考えてみたいのです。
それは日々の共同生活の中での、他者(自分以外の生き物)による愛情のやりとりや自らの情緒の補完性もあるでしょうが、どこかでやはり人間は、自分より明らかに寿命の短い生き物(や植物)の誕生から死までを真近で体感することで、そのプロセスを自己化し、自らが不完全なままでしか終えることのできない「欠落」という意味での「死」の不可避性を穴埋めしようとしているのではないかと言うことです。
自分の生から死までを含めた認識の不可能性を他者の「生」を自分なりの感覚へ変換することで自己内へ取り込み、それがけっきょくは、「癒される」という感覚となって日常を埋める結果となっているのでは。
人という存在を考えるとき「死」は常に大きなテーマとして、影に日向に横たわっています。
それでもまあ、こんなことを言っている私も、やっぱり飽きもせず、何かをつくっては、またこわし(再構築し)、新たに興味の湧くものを探して組み立てていく一人です。
今回、実は、このことを、NGOボランティアプラットフォームの久田さんと何回もの電話やメールのやりとりをしながらホームページ作成にかかわる中で、考えていたのでした。
来月、49歳にして、まったくまだまだやれやれです(笑)。
改めて、新ホームページのオープンおめでとうございます。
つくってはこわす、そんなことをお考えだったんですね。
若輩者の私には考えの及ばないところかもしれません。
ホームページは癒し、なのでしょうか。
生の補完をしてくれるものでしょうか。
いずれにしろ、宮本さんのお力で
このホームページは生きていくことになります。
どうぞ大事に、作り上げて下さい。
今後とも宮本さんの共生の営みを拝見しに、こちらにお邪魔すると思いますので、
どうぞこれからもよろしくお願いします。
コメント by ボランティアプラットフォーム久田 — 2010年10月4日 @ 7:32 PM
コメントありがとうございます。
これからもどうかよろしくお願いします。
コメント by あそびと — 2010年10月6日 @ 8:26 AM