「共」に「生」きる。 in 阿蘇

2022.4.7 糸井重里さんの「今日のダーリン」から

今日の糸井重里氏の“ほぼ日”の『今日のダーリン』に、以下のような文が載っていました。「老いた人が、いろんなことを忘れていったり、いままでできていたことができなくなったりしていても、それまでとちがって『お風呂に入らなくなったりする』と、かなり危ういと考えたほうがいいと聞いた」(中略)「入浴することだとか、歯をみがくことだとかは、ある意味で、してもしなくても大丈夫なことではある。しかし、だからといって、それをしなくなるということは、じぶんが『社会のなかにいる』という事実を考えられなくなっているということのように思う。あるいは、どんな社会にいるのかが見えなくなっている。その社会で、じぶんがどうありたいかどう見られたいか、そういうことがわからなくなっているのかもしれない」

この一文、なるほどと、久しぶりに強く心の奥で納得ました。私、阿蘇に来て独り身になり、ずっと風呂のない場所で暮らしていることもありますが、27年、ほぼ入らない生活をしています。(昨年は盆と正月の2度、実家に帰ったときだけです。高齢の親に余計な心配をかけるのが嫌で入り、阿蘇ではついにゼロでした)温泉もかつてはよく障がい者のメンバーを連れて、彼らが精神的に落ち着くということもあり、介助も兼ね行っていましたが、その温泉好きなメンバーが二人たてつづけに亡くなったこともあって、間違いなく20年は行ってません。ちなみに今年はと言うと、正月もついに実家でさえ入らず、一度も《風呂》というものに入ってません。

何をしてそうさせているのか。面倒くさいだけなのか、いや何か違う、いつもどこかで自分なりに答えを探していました。『社会のなかにいる』という事実を考えられない、もしくはどんな社会にいるのかが見えずらいし見えない、これは決して高齢者だけの問題でも、また現在の世情からだけじゃなく、少なくとも私の中では、似たような心的状態がもしかするとかなり前から継続していたんじゃないか。糸井氏の言葉に首肯しながら、あれこれ考えた次第です。(でもこれも、ただの“ずぼらな”人間の言い訳に過ぎないのかもしれませけどね(笑)夢屋代表 宮本誠一)

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