「共」に「生」きる。 in 阿蘇

今でも忘れられないこと。  佐藤清子

私には、右目の下まぶたから上まぶたにかけ、黒い色素があります。これは母の胎内にいるときできたものです。小さい頃から高校を出る頃までは目立たなかったのですが、20歳過ぎからはっきりわかってきました。母も心配して市内の大きな病院を2軒,回りましたが、治療の方法がないと言われ、二人ともがっかりしました。

私は母に文句を言ったことはありませんが、母は内心、辛かったと思います。私も日頃は忘れていても、鏡で見るたびに、ああそうだったんだと悲しい思いに沈んでいました。それでもめげることなく活発な日々を過ごしてきました。

ところが数年前、地域の小学校の近くを歩いていると数人の男子が私のすぐ目の前までゴソゴソやってきて何やら相談しています。すると後ろを歩いていた女の子が男の子たちの話を聞いて、「“黒い目”などと言って、許せない」と先生に伝えたのです。そのことは学校内でも取り上げていただき、人権教育担当の先生がその子たちとの『出会い直し』の場を設定してくださり、場所は私の家でということになりました。私はジュースとお菓子を用意し、担任の先生とやってきた男の子たちへ「どうしてそぎゃんこと言うたと?」と聞きましたが、ついにそれには答えてくれませんでした。その後、私は、そう言った言葉がどんなに人を傷つけるかなど話し、「すいませんでした」と謝ってくれその場は終わりました。今では、その子たちも立派な青年になっていると思いますが、元気にしてるかなとふと思い出すことがあります。

なぜあのとき男の子たちはそんなことを言ったのか。一人だったら言ったろうか。赤信号、みんなで渡ればこわくない。これと同じではなかったのか。誰か一人でも、相手の立場に立つ人がいてくれていたら……。いろんな思いは今でも消えません。

夢屋では、様々な障がいの人が集まってパンづくりをしています。ちなみに私はうつ病の状態が悪くなった時は2、3日休ませてもらいます。お互いに相手のことを知って、思いやりをもってやらないと成り立っていかない仕事場です。

夫が車を出してくれるので、夢屋が宮地から蔵原へ引っ越してからも私はパンの配達が可能となりました。夢屋は、家にこもりがちになってしまう私たちを外に出してくれるなくてはならない場所です。今では、夢屋の一人として夫もとてもがんばっています。そんな夫も、先日75歳になり、運転で悪い点がないかチェックに行きました。「慎重に運転してください」ということでした。私は、助手席ではできるだけ黙って、運転の集中のじゃまにならないようにしています。夫75歳、私70歳。もうあとわずかです。残りの時間で夢屋にどれだけかかわっていけるかわかりませんが、せいいっぱいやっていきたいし、そんな場所があることを本当にありがたく思っています。

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