「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『母と女性教師の会』主催で夢屋の講話をしました。PCでのリモートで行いました。参加された先生の皆さん、ありがとうございました。そしてお疲れさまでした。

『母と女性教職員の会』主催で夢屋の講話をしました。PCでのリモートで行いました。参加された先生の皆さん、ありがとうございました。そしてお疲れさまでした。地域に(赴任して)いる限り、どこかで何らかの形でつながっているということを大事にしていきたい。

母と女性教職員の会資料~レポート内容は次の通りです~
〇地域に(赴任して)いる限り、どこかで何らかの形でつながっているということを大事にしていきたい。
2022.3.5 夢屋代表 宮本誠一
1. はじめに
1995年春、当時、阿蘇郡内初めての小規模作業所として今は亡き発達障がい者の青年トオルとその母親、私、そして現副代表である竹原の4人で構想を立て、当事者としての活動面、パンづくを中心とした作業面、介護支援面、資金面と各自が分担し、旧一の宮町に産声を上げた夢屋もこの春で27周年になりました。途中、相次ぐメンバーの死、宮地から蔵原への移転(20007)などがあり、現在は登録者13名、通所者5名~7名の中、地域活動支援センター(以後「地活」と表記)Ⅲ型として運営しています。地活は二階建てのシステムでよく説明されます。一階は地域の実情に合わせての創作的活動や生産活動の機会提供や社会との交流促進を目的とする部分、二階はⅠ型、Ⅱ型、Ⅲ型の三つの型に分けられ、Ⅰ型(定員20名)は、障がい者が地域で暮らしていくのに必要な理解や啓発活動、相談支援事業、Ⅱ型(定員15名)が機能訓練や入浴サービス、そしてⅢ型(定員10名)はかつて最も多く点在していた無認可の小規模作業所が移行できるよう設定され、授産作業を行うなど就労継続支援に一番似ている形です。ただ、内実はあくまで障がい者本人が気軽に通える〝居場所づくり〟の面が大きく、規模や財源も小さなものです。
2、やって来始めた教え子の子どもたち。
33歳で退職して始めましたので、今年60歳となりました。当然ですが教え子らも30代後半となり、ここ2,3
年、教え子の子どもが支援学級の児童として体験学習などで来ることも増えました。そんな中に教え子の一人であるミチコさんの甥のワタルさんもやってきたのです。
〇1993年4月~1995年3月
ミチコさんを担任。家庭訪問をする中から家族と親しくなりました。
〇2018年11月
ミチコさんの兄であるタクヤさんの息子ワタルさん(小学4年)と夢屋の体験学習を通じて出会いました。
〇2019年4月~2020年3月
ワタルさんが夢屋に連続でやってき、ミチコさんと苗字も同じであること、顔の輪郭がミチコさんの父のシゲル
さんと似ていることなどから、ミチコさんという親戚がいないか聞いてみました。「あっおばちゃんだ」というこ
とで、話ははずみ、私が五十センチほどの銀色の細い鉄の棒で、火かきのように先が数センチ曲っているものを
持ってきて、「あなたのおじいちゃんがミヤモッちゃんの退職祝いのプレゼントにつくってくれたんだ。当てて
ごらん」それが、手作りの『孫の手』ということから、どんな思いでこれを下さったか、当時のエピソードなど
を交えた話へ移りました。家庭訪問の時はいつでも温かく迎えてくれたことやクラス皆でおじいちゃんが車椅子
工場の見学に行った日のことも話しました。溶接がとてもきれいでとっても腕のいい職人さんだったこと。タイ
ヤをくるくるって回しながらリムの曲がってるとこなんかをすぐに見つけて、付け直したりしていたことなどで
す。すると担任の生が「ワタルさんも工作が上手なんです」と教えてくれ、「そうか。じゃあ、おじいちゃんに似
たんだね」そういう流れの中で、とっておきの印象に残っている話をしました。
おもむろに工場の隅から一台の車椅子を持ってきて、表紙に油染みがぽつぽつ雫のようについたノートを開いて見せてくれました。
鉛筆で中央に車椅子の全体図が描かれ、長さや太さがミリ単位で書き込まれています。各パーツからは線が伸び、その先は細かい文字で注意事項がびっしり埋めつくされていました。
「製作する前に本人からいろいろ聞いてやってはいくんですが、実際に乗ってもらうとやっぱりどこか不具合が起こるんです。例えばこれですが、ほらここ」とわたしから見れば何の問題もなさそうな板の側面を差し、「このネジがね、あの子の場合、ここだとちょうど右回りのとき親指の関節と擦れるらしいんですね。だから今度はちょっと下に」とその位置を説明してくれました。わたしはただただ感心して聞く以外ありませんでした。それからシゲルさんは、少女が出来上がった車椅子を受け取ったときの話をしてくれました。
「納車は先月だったんですが、うれしさのあまりポロポロ涙を流して泣き出したんです。親が泣くことはよくあるんですよ。きっとこれまでのいろんな苦労を思い出したり、これからのこととか考えるんでしょうけど。でも本人が泣くのは初めてでした。こっちも胸が熱くなって」そこでやや声色が変わり「でも、うちの社長なんですがね。卸した後の修理をとても嫌がるんです。元がとれなくなるって。たったネジ一つですよ。あきれますよ」最後にシゲルさんはやるせない思いでこうしめくくったんです。
「わたしが社長なら、この車椅子だって、ただであげてやりたいんですけどね」
校外学習の帰り際、担任の先生が、よかったらこの〝孫の手〟を貸してほしいと申し出られました。ワタルさんの親学級の子たちにも、彼のおじいちゃんの話を知らせてあげたいというのが理由でした。二つ返事で承諾しました。
〇2020年4月~2021年3月
ワタルさんが無事に中学へ入学したことなど、節目節目で動画などを送ってくれていました。竹原さんと祖母の家へシゲルさんのお参りにもいきました。2020年の8月には、家族全員で夢屋へパン作りに招待し、楽しくやりました。ただ、ワタルさんが小学時代と比べ、ほとんどしゃべらなくなっていることが気になっていました。ワタルさんは無事、中2へと進級します。
〇2021.6/17 タクヤさんが夢屋にかなり疲労困憊した様子でやって来ました。(シゲルさんの命日)
〇2021.7/21 事情を聞き、有効な手立てとして熊本県阿蘇市教育委員会と事務所への要望書提出へ。
入院児童生徒等への教育支援の一層の充実の要望書
1、はじめに
私どもの長男、ワタルを始め、入院児童生徒への一層の教育支援の充実、ならび改善をしていただきたく、以下のように要望します。
2、これまでの経緯と状況
 ワタルは一昨年、地元小から特別支援学級生として地元中へ入学し、先生方のご支援のもと多少の曲折はありながらもそれを乗り越え、楽しく通学していました。ところが今年度、担任が変わり、学校も休みがちになり、理由を聞くと新しい先生との関係がうまくいっておらず、他の生徒からの心ない言葉も増えているとのこと。その都度、学校や担任に連絡してきましたが、なかなか改善されず、次第に家で涙を流したり、母親や家族への暴言、自らの存在を否定する言葉を発したりするようになると自傷行為が頻発し出し、通院していた病院の医師からの勧めもあり、校長、担任、保護者で最終確認の上、6/10に入院となりました。
ところが入院当日以後、担任の先生からは数度電話で簡単に様子を聞くだけで、これからワタルが学校へ戻ってくるためにどんな取り組みをされていくか具体的な説明はなく、病院へ直接本人の様子を見に行ったり、保護者の思いを聞きとろうという姿勢が当初、ほとんど見られませんでした。悩んだ末、6/17、ワタルが小学時代から体験学習などで親しかった「夢屋」さんへ相談に行きました。その後、6/20の病院での初面会後も担任からの連絡はなく、7/19にようやく本人とのリモートでの会話の実施の報告が保護者へありましたが、支援学校と地元中との間でどのような取り組みや連絡がされているか保護者が知る機会はなく、果たして退院後、地元中へ復籍した場合、学校側に入院前と同じ状況にならないための対応がしてもらえるかまだまだ心配な状況です。
3、要望要項
 「学校基本統計」(文部科学省/平成25年5月1日時点の全小・中学校数に占める取り組みの割合)によれば、以下の6項目が、入院により一時転学等をしている児童生徒に対する学校の取り組みとして挙げられています。
①実態把握をする。
②退院後に円滑に学校生活に戻れるよう、他の児童生徒に病気の理解啓発等を行う。
③一時転学時もロッカーや机を残すなど戻ってき来やすい環境配慮に努める。
④一時転学時も心理的な不安などの相談支援を行う。
⑤一時転学先学校と連携し、交流及び共同学習を行う。
⑥退院後、自宅療養が必要となった場合にも学習指導等を行う。
阿蘇市の教育行政、そして先生方の日々のご努力には感謝しておりますが、どうか入院児童生徒の一層の理解と支援のためにも、項目中①と④を保護者を交えた上で早急に進めて頂きたく切に要望する次第です。
4,おわりに
2007年の学校教育法改正により、「特殊教育」から「特別支援教育」へ転換がはかられ、『障害の種類や程度に応じて』から、「特別支援教育」ではさらに細かな視点として、『一人ひとりの教育的ニーズを把握し』た上で必要適切な指導や支援を「合理的配慮」の下に行うとなっているかと思われます。自立や社会参加へのきめ細かな支援のため『個別支援計画を立て』るともなっており、今回の要望はこれと充分重なるものと考えております。どうかその観点から、児童生徒の未来のため、以上のことを実行下さいますようよろしくお願い申し上げます。
3.まとめ
今もワタルさんは学校へ行ってません。学校は開き直ったか、はては本当にワタルさんのことなど忘れてしまったのか全く動いてくれてません。委員会や事務所は何をしてるんのでしょうか。ほったらかしです。私たちは、保護者と連絡を取り合いながら、今後、ワタルさんにとってどのような形での接し方や言葉かけが必要か、また次の進学に向けてどんな準備をしておくべきかなどを確認しながら、微力ですが協力して行っています。また本人には、せめて一人ではないことを伝えなければと、今も週に一度か二度、メンバーとパンをとどけています。
さて、支援学級の児童生徒はここ数年、どんどん増え続け、私が勤めていた当時と比べれば桁違いです。しかし現実に<差別>は存在します。現にワタルさんは小学6年の学年度末、自分のいる教室の前で、同じ学校の児童からあからさまな差別発言を受けています。来年度の新一年生を連れ、校内を案内する体験入学のとき、先頭を歩いていた児童が、支援学級の廊下を通る際、あからさまな蔑称を使い、そのクラスのことを紹介しているのです。たまたま部屋にいた児童の一人がワタルさんで、彼は怒りをあらわにし、抗議します。
かつてわたしは、ミチコさんのお母さんに、家庭訪問をちょくちょくする理由を訊ねられたことがあります。人権教育のことだけが目的なのかどうかです。私はもちろんそれもありますが、それだけでなく、ここに来ると力がわいてくることをはっきり答えました。お母さんはそれを聞き、嬉しそうに笑顔になられました。児童、そしてその家族とつながるとはどういうことでしょうか。27年前、一人の障がい者のトオルさんとの出会いをきっかけに始めた夢屋。彼は多くの方々の力で地元の小中学を経て、特別聴講生という形で高校まで卒業しました。しかし卒業後の居場所はなく、施設ではいじめられ、お母さんは心中までしようとされました。その当時と比べたとき、状況は変わったと言えるのでしょうか。そのことこそが問われています。
差別により犠牲となったのはトオルさんやワタルさんだけではなく、障がい者すべてであり、ひいてはその家族であり、かれらとかかわる教師や私たちでもあります。また、それは呼び捨てたその子自身にもその行為は必ずかえってくるものであり、その子が手を引く園児たちは、その言葉により差別の空気を、より具体的な「言葉」という手段で伝えられ、同じ過程を今後もまた、歩んでいく可能性があります。
ただここで忘れてはならないのは、蔑称の「言葉」は、けっして行為した児童自身から出たのではなく、その子の置かれた環境、すなわち家庭や地域、学校という中で醸成され、時と場合を無意識に選択しながら外部の<空気の力>によって押し出されてきたものであり、まさしくそのような意味で学校と社会教育両面の根本が問われています。
「地域に(赴任して)いる限り、どこかで何らかの形でつながっているということを大事にしていきたい」
とは、そのことを常に意識に置きながら考え続け、これからも生きていくことを意味しています。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment