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「日本一」になることが「オンリーワン」なの?

「日本一」になることが「オンリーワン」なの?
熊本日日新聞の「新生面」は毎回、社会情勢や政治、経済を斜めから、あるいは裏側から少し穿った視点でとらえ、楽しみにしている欄ですが、今回(2021.12.7の朝刊)、どう考えてもこれは間違った認識、もしくは誤解を招く可能性があるのではないかと思ったので書かせていただきます。
それは1980年代半ば(任期は1983~1991年)の熊本県知事であった細川護熙氏が推進していた「日本一づくり運動」を「後の言葉
で言えば『ナンバーワンよりオンリーワン』。住民自身が地域の魅力を見いだす先駆的な挑戦だった」と全面的に肯定感に満ちてとらえておられる点です。
私は、公正な選挙の下に選出された細川氏の政策を批判や否定するつもりは毛頭ありません。ただこの紙面を書いた記者の政治政策における、ある一面だけを強調した無理な転用に、いみじくも「言葉」を最大限のツールとする新聞紙にとっては、これを一読者として看過することは、むしろ〝瑕疵〟となるのではないかという思いで書かせていただく次第です。
そもそもどの時代のどんな政治政策も、突き詰めればプラスとマイナス両面あることは当然かと思われます。そのような視点に立った時、私が細川知事の行政下で実施(推進)されたものとして決して忘れてはならない施策の一つに「個人学習診断テスト」があるのではないかと思うのです。
まさしく、これも新生面の記者の主旨同様、細川知事の大号令の下、教育面での「日本一」、つまりは大学進学、しかもそれは東大進学、ひいては卒後の国家官僚への就職とそこでの人脈を増やすという、今から考えれば、牧歌感さえ漂う方法で中央からの政治的資金や公共事業の誘導の成果を目指し、取り組まれたのでした。
さて、そもそも個人学習診断テストとは、「児童生徒一人一人に焦点を当て、教科の基礎的基本的事項の習熟の状況を明らかにして、個に応じた指導の徹底を図る」(実施要項より)という目的のものでしたが、それぞれの学校で同じ日時に同じ問題が一斉に行われ、かつ結果は担任によってマークシートに書き込まれ数値化した表となって本人の元へ返ってくることから競争激化になることは目に見えていました。
ざっとその流れを列記します。
・87年度に県教育委員会が「学力向上対策事業」を発足。
・88年度「学力向上推進校」を各教育事務所ごとに指定
・90年度、国語、算数の「基礎的、基本的事項事例集」を作成し、各学校に配布
・91年度「個人学習診断テスト」実施を表明し、学校現場の了解もないまま110校のモデル校選出し12月7日に中学3年、2月5日に中学2年生に実施。
・92年度、学校の「希望」をもとに110校指定し、12月11日中3,1月14日小1~中2に実施。
・93年度11月17日熊本市教育委員会(当時 柏木明委員長)が「このテストは問題が多い」」として参加見送りを決定。
・93年度12月10日、中3、12月21日小3~中2を対象に実施され、大量の拒否者が出る。
計画立案からモデル校での実施までの重要な時期と細川知事の任期とはまさしく重なり、「なんでも一番、東大合格者も日本一」という知事本人の言質も残されております。つまりは、その号令を受けた県の教育委員会が思いついた「日本一」になる試みが、このテストだったということです。
テストが計画から現場へと下ろされ、実施された90年から95年の当時、私は小学校教員の一人として、多くの児童や保護者、そして教師の混乱と分断を目の当たりにしてきましたし、実際に私の担任した児童からも拒否者が出ました。それは、まさしく「ワクワク」とは真逆の世界でした。そのような視点から、少なくともあのテストに関しての「日本一」の試みが、決して「オンリーワン」をつくりだすものでなかったことは明瞭です。なぜなら拒否者の多くが「人と比べられたくない、自分は自分らしくいたい」とむしろつぶされそうになる「オンリーワン」を必死に希求する願いのような声を発していたからです。また、熊本市のテストの実施見送りもさることながら、県内で多くの拒否者を生んだこと、そして数年でその効果に見切りをつけられ、消滅したことからも明らかでしょう。
さて、そうは言うものの、三十年がたった現在、マクロ的視点に立てば、当時の細川氏が現在のネオリベ(新自由主義)的政策の先取りをしていた点は注目すべきかもしれません。その方向性は、氏が打ち立てた日本新党や非自民、非共産党8党派の連立政権樹立により、日本で長く続いた55年体制を崩壊させた意義は大きく、その流れは回り回って後の自公保の小泉政権によって、本来解体すべき企業や組織の既得権益システムを市民への行政サービスやセーフティネットへすり替えるという、より日本的ネオリベに変質しながら踏襲され、それもまた政治の正と負の両面と言えるかもしれません。
今回この「新生面」について、《紙面のお尋ね》の部署に電話したところ、担当者の方が、こちらの意見をお聞き下さりつつも、「この記者はあくまでも日本一になることを〝主〟ではなく、地域の個性を生かすことを言いたかったのだろう」との解釈を述べられました。
そこで私は、「ええ、そう思います。だからこそ、今、そちらがおっしゃった丁寧な説明をこの記者さんは一行でもいいから、いれるべきではなかったのでしょうか」と申し述べた次第です。その役割を担ってきたものこそが、そもそも「新生面」ではなかったのかと思うです。
そのような意味で、この「新生面」は文脈的にある地点で大きく価値(質的位相)を転換するせっかくのチャンスを逃しているようにも思います。
気づかれた方も多いかもしれませんが、途中「県職員に『そんなことよりおたくの町も早く日本一をつくらんですか』と迫られた」という地点から、「時代の先を見通す難しさを感じる」の箇所です。
そこで、こう展開すべきだったのではないかと私個人は思うのです。
「そうだ。かつて『日本一』という右にならへの号令や上辺の数値や形を安易に求めなかった菊陽町だったからこそ、今、地道な独自な取り組みが実を結び、町の特性を生かした発展を遂げつつあるのであり、さらにはその風土を求め、多くの企業や人々も集まってきているのだ」と。
スマップのあの歌詞の一節を思い出しましょう。
小さい花や大きな花
一つとして
同じものはないから
No.1にならなくてもいい
もともと特別なOnly one
「日本一」ではなく、あくまでも「Only one」を追求した先に、今の状況はあるのであり、そこを見誤ってはならないでしょうし、まさしく菊陽町はそれを実践しておられるのではないでしょうか。
以上のように、当時の細川知事が提唱された施策と私の教員時代に遭遇した「個人学習診断テスト」が無関係ではないがため、このことはある程度、当時を学校現場で体験した者としてきちんと書き残しておかねばと、したためた次第です。
今後の「新生面」の執筆の参考にしていただければと願う次第です。(夢屋代表 宮本誠一)

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