「共」に「生」きる。 in 阿蘇

再びの地上、大学の正門閉鎖反対の取り組みからインド帰りの友人との同居へ~

~再びの地上、大学の正門閉鎖反対の取り組みからインド帰りの友人との同居へ~
山小屋の屋根には、ぽつぽつ小さな穴が空いています。それは冬山の登山者たちが残したピッケルの跡です。
8月いっぱいで、今いる小屋を閉めると聞き、ショックでした。
「いいずら、うちの店で働けばいいずら」
麓で写真店を経営している女将さんがそう言ってくれましたが、地上での労働には全く興味がわきません。それどころか、また人間たちの雑踏に帰っていかなければいけないのかと、考えただけで溜息が出ます。でも山小屋での生活を体験してみて、どこへ行っても結局は同じ、逃げ場なんかないんじゃないかという気にもなっていました。
8月31日となればもう富士山の七合目は、朝夕だけじゃなく日中も少し肌寒くっなってきます。最終日の午後、僕は7合目から9合目までの全山小屋をめぐり、焼き印を自分で押して回りました。これはバイトの場合、労いの意味で無料でやらせてくれます。その足で頂上へ登ると御鉢巡りをしました。まずは内回り、そして外回りです。できるだけかつて修験僧が回ったらしい道を通ってみました。恐ろしいです。『親人知らず』という難関もあります。そこを通る時は自分のことだけしか頭になく、親や他人のこと一切考えなくなるという意味です。記憶では、かなり錆びついた手すりのようなものがあった気がしますが、つかむものもなく足元だけを頼りにしていたかつての人たちは果たしてどんな気持ちだったか。当然でしょうが、急斜面を転げ落ち、命を落としていた僧たちもいたそうです。そこを一人、二か月間、ずっと着慣れてきた法被と長靴で杖を突き歩きながら、とりあえず今の自分にとって帰る場所は大学しかないんじゃないかと気持ちが固まってきていました。明日には、もう一度、この作業着を脱ぎ普段着にもどらなければならないんだろうと。
9月1日。翌朝の空は晴れ渡っていました。七合目を出発し、五合目からはバスで降りていきます。いつも遠くから見ていた富士五湖の一つ一つが目の前に迫ってきます。停留所から乗ってくる観光客。季節柄、学生が多かったです。二か月間ほとんど風呂にも入らず、髭も伸び放題。錫杖ならぬ烙印がいたるところに入った木の杖を持った僕をじっと見ている人もいましたが、気にはならなくなっていました。
こうして大学三年の夏も終わったのですが、面白いエピソードがあります。
下宿に帰るや、またもあの労働組合の方たちが、懲りずにオルグにやってきました。
「何回もきたけど、ずっと留守だったね。どこに行ってたの」
いかにも、こちらが時間帯を見計らい、外出でもしてたかのような聞き方です。
「富士山に行ってました」
そう言っても、まったく信じてもらえないんですね。
この人たちの想像力ってどうなってんだろ。人間ってのをどうとらえてんだろうって思いました。これで労働者の解放なんてできるんだろうかと。なんか急にそのとき、見切った感になりました。
さてそれから相も変わらず、前述の五回の中の何度目かの選挙に出るんですが、その過程で、正門が閉められるという情報が流れてきたんですね。
24時間、学生が自由に大学を行き来でき、かつサークル会館を利用できることは学生たちが自警までやりながら長く守ってきた学生自治としての権限です。そこにいよいよ大学側は不審者が入ってくるとの理由で管理の手を伸ばそうとしてたんです。
僕は、そういった実態がそもそもあるのかないのか、実際に年間どれくらいの不審者がくるのかなど質問状を出しつつ、友人と2人で大晦日から正月をまたいで新年までの2週間、大学内にテントを張って、見回りすることにしました。その友人こそ、その後、ほぼ一年をかけ、インドを中心にタイやネパールを回ってきた後、僕と一年間、一軒家に同居することになるんですから縁とは不思議なものです。
 さて、校門閉鎖に反対する僕らの考えはこうでした。そもそも大なり小なり税金が注入されている大学は地域に開かれたものでなくてはならない。例えば災害時の避難場所としての役割もそうです。ですから不審者が入ることはむしろ当然で、それとどう向き合うかを科学的、合理的に考え、排除でなく矯正も含め、当事者と一緒に考えていくことこそが学術の場としての大学の本来の姿ではないかと。
大学側は、ある晩、何人もの職員と閉鎖に賛同する多数の学生を集め、正門前に集結してきましたが、僕たちも何人もの有志の力の結束のもと、ピケを張り、門はついに閉められることはありませんでした。

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