〝リアル脱出ゲーム〟を繰り返していた幼稚園時代
今、ゲームソフトでは「リアル脱出ゲーム」の様々なバージョンが相も変わらず人気ですが、僕は、幼稚園児時代から、まさしくこのゲームをバーチャルどころでなく、生身の身体で必死に繰り返していたのでした。
当時、現在のように保育園数は少なく、適正年齢になれば幼稚園や小学校が「行く」べきとこであり、ほぼほぼ当たり前な時代、すなわち1960年代、高度経済成長期の真っただ中、〝不登校〟も〝不登園〟も〝いじめ〟も「カテゴリー」としてはっきりと存在しない、まあ、いろいろありながらも「そこで過ごす」というのがごく普通であるかのように疑われていなかった時代、幼稚園に着くや隙を見て抜け出し、あるいは途中で姿をくらまし、およそ2キロほどある家路へと就学前の僕はついていたのでした。
理由は、いじめです。
帰路は大いに困難を極めました。
子ども心に誰にも見つからないようにしなければと、反対方向から誰かが歩いてくる気配があれば、人の家であろうがかまいなく門の中に入り、身を隠します。そして通り過ぎたところを見計らいまたすばやく、まるで忍者のような身のこなしで、次なる安全な場所へと急ぐのです。
そうやってなんとか家へ帰っても、嘆く母の顔を見るのもつかの間、すぐに僕がいないことに気づいた幼稚園の先生が迎えに来て、あっけなく連れ戻されるわけです。
大人たちはこう考えました。きっとこの子は、人見知りがはげしく溶け込めないんだと。
そこで思案した親は、誰も来てないかなり朝早く、園に行かせたらと自転車で送って行ってたようです。
でもそれは、もっと悲惨な結果を招きます。なんと僕を餌食としてつけ狙う相手も、家庭の事情か、果ては僕が早くきてることを察知してか、同じ時間帯にきていて、ついに僕は園内で『白昼の決闘』ならぬ『早朝の決闘』という二人っきりで悲惨な朝の時を過ごさねばならなかったのです。
どんないじめをされてたかは、未だ書きたくありません。ただそれに付随することで強烈に記憶に残っていることがあります。
僕はずっと、その子に微に入り細に入り身体的にも言葉でもいじめられ、ついには脱出という方法を選んでいたわけですが、当然ですけど、毎日やれるわけでなく、まあ、多くはけっきょく我慢してたと思われます。しかし、それにも限界が来ると、脱出までいかなくても別の方法をとることになります。それは、園内に「隠れる」ということです
ある日、無意識か動物的本能か、とっさに教室にあった長机の下に身を隠したのでした。
で、当然ですが、そんなところに身を置いたところで、あれ、あの子がいない、あっ、いたぞって感じであっけなく見つかってしまいます。先生が引っ張り出します。そのときなんですね。子どもは残酷です。下からいやいや顔を出すや、大笑いされるんです。さも、僕がふざけてそんなまねをしているかのように。
いじめられていたこともそうですが、その笑い声とはちきれんばかりの園児たちの笑顔の方がリアルに記憶に残っています。先生の困り果てた顔は、もうどこか慣れてたというか、無感覚になっていたというか。
その後、僕へのいじめは小学6年までつづきます。
古くはポール・ニューマンの『暴力脱獄』、スティーブ・マックイーンの『パピヨン』、それともティム・ロビンスの『ショーシャンクの空に』か……。いやはや、幼年時からよくやってきたものです。還暦も間近になり、少しはこうして振り返れるまでになりましたが、それはけっして過去と和解したいわけでも許したり、肯定したいわけでもさらさらありません。まあ、そうですね、しいて言えば、どこかで、逃げてきた、身を潜めてきたからこそ、今の自分があるやもしれぬと、もしも「人生」というものがあるなら、そこに一縷の希望を持ちたいのかもしれません。
ところで、ここでは園や学校の話をしましたが、家族のこととなると、まだまだ今のところ、墓場まで持っていくしかないようです。いえ、それどころか、どうあがこうが逃げることのできないものこそがそれであると、切実に感じている現在です。
(夢屋代表 宮本誠一)