「共」に「生」きる。 in 阿蘇

やっと落ち着いた手洗い場の修理。

熊本地震から5年と3ヶ月。破損したトイレの手洗い場。当初、汗びっしょりになりながら手元にある道具と部品で熱心に修理してましたが、どうしてもそろわないものがあり、断念。私の場合、手元にあるものを再利用し、お金はできるだけかけない、かつ、夢屋のメンバーたちにも使いやすいものにするというのが最低条件です。それでまあ、4年以上、ほたってました。と言っても、どこか頭の隅で、偶然いい部品がどこからか見つかったり、チャンスがあればと、うかがっていたふしはなきにしもあらずですが。それでも、当然でしょうけど、毎日、蛇口のことばかり考えてるわけにはいかないんで、ほとんど忘れている日も増えていました。ところがです。昨夜ふと、こんな形でいいのでは、と思いつきました。

「治す」「修理する」という行為は、どうしても「元の形(状)や機能に戻す」あるいは、できるだけ「元の状態に近いものにする」という発想にとらわれがちで、どこかで自分自身も、そうじゃないと言いながらもやはり、そこへ引きずり込まれ、縛られてしまってるのではないのでしょうか。私の場合、そのとらわれから抜け出すのに、なんとこれだけの年数が必要だったというわけです。

でもですね、これ、木を栓に噛ませるとこはなかなかむずかしくて、栓を裏返しにしてとりつけ(たったこれだけのこともなかなか発想がわきませんでした)、彫刻刀でその枠に噛ませるホゾ(溝)をほったりして、そこがなかなかのミソなんです(笑)

そこでです。いっそ栓も外して、直接、木の棒に穴を開け、ネジで取り付けたら?

そんな疑問が浮かんでこられる方もいらっしゃるかもしれません。

で、考えなきゃいけないのは、鉄と木材の強度の違い(摩耗性)もあるんですが、それよりもなによりも、この栓を使わざるをえなかった理由が、栓自体の隠れた箇所に工夫して製品化してあるのです。それは一度お暇があったら取り外して見られたら、なるほどと納得されるかと思います。やっぱりなかなかに、商品として付加された知恵(価値)って、すごいよなって、私など思わず、深く頷いてしまいました。(夢屋代表 宮本誠一)

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