「共」に「生」きる。 in 阿蘇

読書感想、あれこれ。

本来、読書感想というのは一冊読むごとに書くものでしょうが、どうも最近、こういった文章を書いた後、肩こり、そこから神経が連結している持病の左目下の痙攣がひどくなり、しばらく控えようと思っていたのですが、良い本はそれなりに胸に迫るところがあり、その微妙な機微を忘れないうちに自分なりに書き留めておくことも、やはりそれなりに意味があることだろうという気持ちは抑えがたく、溜め書きというべきか、二冊いっぺんに書いてみることにしました。

まず、柳田邦男の『犠牲(サクリファイス)~わが息子・脳死の11日』(文春文庫)。

これを私は終始、重い気持ちで読みました。

「家族」とは何か、このテーマはこれまで多くの場所で、多くの人が語ってきたものですが、作者も何度も自らの「家族」に対して「家族崩壊」という言葉を使います。その理由は、次男の精神疾患からもたらされた<自死>に加え、連れの鬱病と言う、いわば、ある種の「家族」という「器」に乗りつつも、それぞれ義務付けられた仮面(ペルソナ)を、あるときは喜悦の中で、またあるときは苦悶をともない、それでも外すことなく嵌め続け、持続することが「構築」に匹敵するならば、そのことが身体の疾患も含めて止むにやまれぬ理由によって継続不能になったとき「崩壊」を意味するのだ、という位置付けに思えます。しかし、果たしてそうなのか?

作者を始め、ここに登場する妻や長男、そして死んだ次男は、私には健全すぎるほど健全な「家族」に思えます。健全であるがゆえの、真摯であるがゆえの切実さと脆さ、そして「契約」を超えた絆を感じとるのです。

それは、この一家が、社会性という外的側面を「崩壊」という形で一度払い落し、再度、構築(再生)を試みてきた結果とも言えます。
その主な柱は作者の「父性」と「母性」を兼ね備えた資質にもよると思うのですが、これに関しては、ここでは深くつっこみません。

つづいて、帚木 蓬生(ははきぎ ほうせい)の『三たびの海峡』(新潮文庫)です。
私はどこかこの作品が高橋和巳の『散華』に重なり、ナショナリズムをテーマに、同類が同類を撃つとでも言おうか(しかし、それ自体果たしてDNAや骨格、歯形を含めた様々な解析がここまで進んできている以上、有効かどうかわからないのですが)ある種の古い幻想に支えられた人間ドラマに思えました。

いや、確かに面白いのです。
筋も先に程よく読めつつ、それでも(だからこそ)どうなるのかと確認したくなります。
それは何よりも作者の細かな伏線を敷いた手だれた文章によります。

かりに、もし作者がこの作品を「博愛」や「人道」とは一線を画した本来の「理性」を中心としたヒューマニズムという観点(実際に、私には主人公を含め、いわゆる「正義」の側が理性をむきだしにした「良い子」に見えます)から、描こうとしたのであれば、「国家」や「国境」もそれなりに整理したうえで表出してほしかった、そう思います。

読後、結局、「日本」とは、「朝鮮」とは、また主人公が三度も往来する「海峡」が意味するところの「国境」とは一体、何であったのか、がぼやけ、そこに「人物」ばかりが前景に押し出てくる印象が拭えないのです。(そのような意味で和巳と重なったのかもしれません。一歩間違えれば、ちょっとついていけないな、というところへ行く危険を孕んでいます)

また、創作上のことですが、作者は、結末の主人公の復讐劇の場面が最初の構想としてあって、そこへ到達せんがためプロットという階段の地歩を固めてきている気がします。すなわちもっと言えば、主人公の「人格」がまず何より先にあるのです。

そして当然でしょうがそこから派生する形で他の登場人物の「人格」もつくられています。その意味でここにいるすべての人物は本質的な意味で誰一人「悩んで」いません。

私はこの作者の力量を重々認めつつ、そんな「理性」的側面の功罪をあえて書いておきたく思った次第です。

最後に、梁石日(ヤン・ソギル)の『血と骨』(幻冬舎)はまさしく、「理性」とは対極に位置する「身体」すなわ『血』と『骨』で、同じテーマを扱いスケール甚大であることを付け加えておきます。(この作品も、ちょっと間違えればついていけないな、というところまできてます)

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