「共」に「生」きる。 in 阿蘇

阿蘇市で弁護士事務所を開いておられる森あいさんが登壇されています。

https://www.youtube.com/watch?v=W_R8Q6bsMj4

LGBT問題ではなく、みんなの問題、みんなのためのこと
森あい (「くまにじ」https://kumaniji.jimdo.com/
 「LGBTについて知りたいので入門編ということで話してください」、「LGBTのことが分からないので、基礎的なことを書いてください」といったご依頼をいただくことがあります。
 LGBTという言葉は、最近は新聞やテレビでも出てくることがあり、詳しくは分からなくても、聞いたことがあったり、見たことがあったりする人は多いのではないでしょうか。
 LGBTとは、
 L:レズビアン(恋愛や性的な関心の対象が女性である女性)
 G:ゲイ(恋愛や性的な関心の対象が男性である男性)
 B:バイセクシュアル(恋愛や性的な関心の対象が同性でも異性でもある人)
 T:トランスジェンダー (割り当てられた性別と性自認が異なる人や、割り当てられた性別と違う性で生きる人、生きることを望む人。トランスジェンダーの定義は、人によってかなり違いがあります。)の頭文字をとった言葉です。
 LGBTは、LGBTにあてはまる人を総称するものとしても使われますが、「異性、同性問わず、そもそも恋愛や性的な関心が誰にも向かない人」や、「恋愛や性的な関心の対象や自分の性別が分からなかったり決めたくなかったりする人」なども含め、広くセクシュアルマイノリティを総称するものとしても使われることもあります。
 このようにLGBTについて説明することはできるのですが、私は、最近、LGBTの説明をあまりしませんし、するときも説明は少しだけにするようにしています。
 LGBTの説明から入ったり、LGBTについてたくさん説明すると、根本的に重要な、「どんな性別の人を好きになるのであっても、あるいは好きにならないのであっても、自分の性別を何と思っていても、人は1人ひとり尊重されなければならない」ということが忘れられがちだからです。結果、「ある人はLGBTなのか」に関心が向き、さらに、場合によっては、「LGBTだったら支援しなければならないが、そうでないなら支援の必要がない」とさえ考えられることもあります。
 また、LGBTなどのセクシュアルマイノリティが生きづらいのは、婚姻制度が使えないなどの制度の不備、また様々な偏見などによるものであり、当事者でなく社会の問題です。しかし、LGBTばかり説明されると、LGBTという弱者の問題で、マジョリティとは関係のない、LGBT自体の問題だと思われてしまいがちです。
 マイノリティのことではなく、みんなの問題。そして、好きになる性別、自分自身の認識する性別、自分の性別などにかかわらず、1人ひとりが尊重されるということは、みんなのためになること。
 自分はLGBTでないと思っておられる方にも、LGBTの問題というのでなく、みんなの問題、みんなのためのこととして関心を持っていただけると嬉しいです。

(2018.4.10『夢屋だより』春号に寄稿していただいた文章です)

すでにともに生きている人たちの話
  森あい ( 「くまにじ」https://kumaniji.jimdo.com/
「自分が同性愛者であることを認識した日から、この国でも同性婚ができたとするなら、また違った生き方をしていたかもしれない。そんな人は沢山いると思います」 (http://douseikon.net/?p=555) 熊本に住む、同性のパートナーがいる男性の言葉です。 日本では、同性どうしのパートナーシップに法的な保障はありません。 同性のパートナーを殺された男性が、一昨年、犯罪被害者給付金を申請しましたが、認められませんでした(https://mainichi.jp/articles/20171228/k00/00m/040/126000c)。男性は、約20年間、パートナーと同居していました。パートナーの給料は男性の口座に入金され、家事や家計管理は男性が担 い、男性とパートナーの生活は一体でした。パートナーを失ったことで、精神的な点はもちろん、 経済的にも大きな苦しみがあったはずです。「被害者と一緒に暮らした遺族を支える」という制 度の目的からすれば、同性であっても認められるべきです。「男女だって結婚していなければダ メだろう」と考えられるかもしれませんが、男女であれば内縁関係でも支給されることになって います。
ことは法的保障だけではありません。 「私と彼女は仲の良い友達でしかない、一緒に生活したとしても同居人でしかないということで す」 (http://douseikon.net/?p=154) 熊本に住む、同性のパートナーがいる女性の言葉です。 関係が認められていないということは、祝福の外に置かれることを意味します。大切な人との 生活が無視され、例えば、仲の良い友だちであったり、同居人とされてしまったりします。未来 の描き方が、男女でパートナーシップを築く人と同じではありません。
また、生まれた時に割り当てられたのと違う性別で生きている人たちもいます。日本でも、性 同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律という法律により、法律上男性(女性)とされた人が女性(男性)に性別の取扱を変更できるようになりました。しかし、条件が厳しく、変更 できている人はまだまだ少ない状況です。見た目の性別と法律上の性別が一致しないと、例えば、 投票に言った時に怪しまれるなど、困ることがたくさんあります。
こういった話は、海外の話、日本でも東京や大阪の話、九州でも福岡の話、熊本でも市内の話、 そう思われるかもしれません。しかし、そんなことはありません。どんな小さな町や村にも、同 性を愛する人もいますし、生まれた時に割り当てられたのと違う性別で生きることを望む人はい ます。しかし、残念ながら、自分の生きたいように生きられず、出て行くことを選ばざるをえないことは珍しくありません。
熊本が、法律上の性別が男でも女でも、自分の性別を何と思っていても、また、好きになる人 の性別が何でも、1人ひとりが大切にされ、その人らしく生きられる場所になることを願っています。もしこれまでにこういったことを考えたことがなかったという方がいらっしゃれば、すで にともに生きている人たちの話としてこの文章を留めていただければと存じます。
(2018.6/29発行『夢屋だより』(梅雨号)に寄稿していただいた文章です)

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