「共」に「生」きる。 in 阿蘇

夏の終わりに思うこと。

ここ数年、夏から秋にかけていろいろな研修会へ講師として招かれることが増えました。また、訪問客、とくに福祉に携わっておられる方の見学も多いです。
昨日の九重町のみなさんもですが、来月は苓北町の方が20名やってきます。
個人的にはなつかしい再会もありました。
大学の同級生、そしてかつて小学校で担任していた教え子と保護者、こちらは25年、そして18年ぶりに顔を見ることができました。
日ごろはあまり時間を意識しているわけではないですが、確かにこのようなある程度の間隔を置いた再会の場合、相手の少なからずの外見の変化を見ることで、そうか、やっぱり歳月は過ぎているんだなあと改めて意識することが多いです。
「存在」とは、ただそこに在るから「存在」するのではない。過去、現在、未来という流れの中で「現存在=人間」が「時間化」されたとき初めて立ち現われてくる、と言ったのはハイデッカーでしたが、今更のようにこのことを考えます。
しかも時間も、そもそも直線的に物差しのように用意されているわけではなく、「存在」が「企投」=「投影」されることによって初めて個々様々な長短(中には断絶や歪みも持ちながら)の姿で誕生するから厄介です。
いわば「存在」と「時間」の切磋琢磨というか相互作用の中で日常を生きているとも言えるのでしょうが、大方は無意識と無時間の中、無重力のような世界を海月のように浮遊しているのかもしれません。
さて、8月23日は、夢屋をいっしょに始めた下原猛さんの誕生日です。
生きていたら35歳になります。
夢屋を作り始めた当初、なかなかのやんちゃだった彼をうらめしく横目で見ながら、よく母親や竹原さんと彼の中年を迎え、ややエネルギーの衰えたときの姿を見てみたいねと話していたものです。
しかし、その願いも叶わず、24歳で逝ってしまいました。
そのような意味で、彼の時間は存在の消滅とともに停止してしまいました。
でも最近思います。
止まっているからこそ、まだなんとか動き続けているこちらから話しかけ、思い浮かべたりすることで、生前というに留まらず、また新たな猛さんの像を立ち昇らせていくことも可能だし、必要なのではないかと。
何と言ったって、こっちの時間はちゃんと日々、それこそ嫌になるくらい過ぎていっているわけだし、猛さんの「像」も当然それに合わせ変わってきていいわけでしょう。
そうです。そう考えれば、思う人がいるかぎり、考えつづける人がいるかぎり、猛さんは生きているし、彼の「時間」はやはり止まっていないとも言えるわけです。
まだまだ残暑が続くこの夏の終わりに、ふとそんなことを考えた明け方でした。
どうか、みなさんも、お体気を付けて、今日という一日を送ってください。

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