「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『県人教ニュース7月号」に、6/22の大津町生涯学習センターで開催された「進路保障(就労)研修会」の様子が掲載されました。夢屋の記事は以下のとおりです。

(宮本)小学校の教師として5年間勤務した後、作業所を開所し、今年で16年目になります。辞めた当時、難病で入院していた母親が泣いたんです。身内や家族にこそ、自分の仕事のことを話すことが大切だということを経験から感じています。
進学や就職とは、成績など単純な理由ではなく、その子の複雑な思いがあり、多面的な見方が必要だと思います。
僕自身の生い立ちや経験をたどらないと、今の自分のことを説明できないんです。
重度の自閉症の青年との出会いから、自分自身の障がい者に対する考え方も変わってきました。地元の高校で聴講生として学んだ後、就労先がなかったんです。地元で通えるところを希望していましたが、就労になると簡単にはいかない。小学校時代の担任の竹原さんや当時地元の中学校におられた野口さんが、彼の就労に関わってくれました。でも、たった一人の障がい者の就労が難しい現実に、なぜ先生たちは就労の道筋が弱いんだろうと思ったんです。
彼を授産施設に入所させたことを、お母さんは「何であのとき……」と言われるんです。そこがポイントなんです。ずっと地域の中で生きてきた彼には、「なんでここなの?」と理解できないんです。亡くなった彼の体から出てきた赤いボルトが、ぼくに訴えてくるんです。自分のことを伝えてほしいと。
地域振興課の課長さんが、「夢屋」のことを「うちん作業所」と言ってくれます。地域とつながる力、それが一番じゃないかと思うんです。就労とはいったい何なのかを考えてほしい。最低限の生活保障の面もありますが、ぼくの体験から、みんなと一緒に向き合って力を合わせていくことで、厳しい状況も打開していく力が生まれるんです。


(中島)私は聴覚障がいがあって、左耳が聞こえません。右側に回ってもらったり、相手の口元を見ながらやりとりしています。
一時期、仕事を辞めて家に引きこもりがちになったことがあります。「夢屋」のことを知って、初めは「何で勝手にすると。絶対行かんけんね!!」と母に言いました。でもみんな温かく迎えてくれて、自分でも不思議なくらい楽しくて、自分に合っているのかなと思います。


(宮本)僕が最初に迎えに行ったとき、中島さんは、「本当は行きたくありません」とはっきり言ったんです。だから大丈夫だと思いました。根っこの部分は、人と人との出会いです。お互いの意識やとらえ方を変えていくことじゃないかなと思います。
「夢屋」は最後の就労場所だと決めつけてはならないと思っています。
どんな就労があるか、地元での採用がないかいつも考えています。
障がい者が就職することがどれくらい大変なことか、本当に自分がわかっていたんだろうかと思うんです。
中島さんに「どうして(僕と一緒に探した仕事を)辞める前に相談しなかったの?」と聞いたら、「話したらとめられるから」と言ったことは、とても大事なことなんです。それは、彼女たちがまだまだ孤立しているということなんです。
本当の自分の気持ちをわかってくれるだろうか、相談しても、自分の置かれた環境の改善につながるのか、僕自身の力量が問われてるんです。
中島さんが就職してから働いている姿をしっかり見ていたのか、「とめられるだけだろう」と思わせてしまっているんです。僕が会社や地域と「つながり」をつくることが、とても大切なことだと思います。

(尚、当日は中島さんだけでなく、ミユさん、ミサキさんもそれぞれの思いを語ってくれました)

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