「共」に「生」きる。 in 阿蘇

解放文学賞を通じてお世話になった田村初美さんが『とぼくれホタル』で第26回三田文学新人賞を受賞されました。

このたび解放文学賞を通じお世話になり、また小説を書きつづけている意味で“同志”(御本人がいつもそう言って下さるので、ここでは恐縮の至りではありますが敢えて使わせていただきます)でもある田村初美さんが、作品『とぼくれホタル』で第26回三田文学新人賞を受賞されました。心からお祝い申し上げます。 田村さんは文芸誌『革』2019・秋号に『雲のアンパン』を掲載されております。

〇『雲のアンパン』についての私(宮本)的感想
突然に失対を辞めた父信夫と娘多恵子が掘坂山の麓の村から伊勢湾を目指し、その途中途中で、過ぎゆく地域や家々での出来事が想起されては再度、その劇が展開されていく、ある種のロード・ムービーの形が構成の軸となっていると受け取らせていただきました。常に自転車と二人は父親の漕ぐ速さで、そして多恵子が精一杯体を逸らしたりして押しやるいわば双方の最大限の力を合わせて過去から現在、そしておそらくは未来へと移動を遂げていっているところが、まず読者としてリズムをつくりだし、興味深いところだと思います。
さてそんな中、私が注目したのは多恵子の草花や風景に対する感受性の豊かさです。
色彩感覚が研ぎ澄まされていて、とても繊細です。おそらく作者ご自身がかなり重っておられるのかと思われるのですが、アハハッと時に声に出し、またある時は心の中で笑うその表現も含めて、それが鋭敏であるがゆえに内面の「孤独」を一層浮き上がらせることに成功しているよう感じられました。
実のところ私は、最初は信夫が、もしや思いつめた末に死に場所(自死のための)を求め、娘を道ずれか、もしくは最後の生き証人にしようと考え、「伊勢参り」の裏バージョン、つまり現世利益ではない、来世への願いを込めた歴史性を超越した救済のテーマがここには隠されているのではと、内心、結末がどうなるのかひやひやして読ませていただきました。それほどに途中で詳述される信夫や多恵子を始め、村の住民への社会構造上の差別の実態の厳しさや歴史が胸迫るものとして描かれていたからです。
さらにこの作品の特筆すべき点は、そのような多恵子の感覚を通して「差別」の構造が図式的にではなく、各人の無意識の位置にまで下り、より潜在化されたものとして、あたかも表面は透明でありながら、まるで底は果てしない沼地であるかのような古井戸のような不気味さとともに見事に描かれているところにもあるように思えました。これは非常に重要な視点であって、差別の普遍的な要素をつかみ出しているといたく感心しました。
その表現を支えるものとして作者の持っている「抑圧する側」と「される側」の二項対立でなしに、その奥にある人間個々の内面へきちんと同じ測りをもって切り込んでいく〝平等な眼差し〟を感じました。それによりむしろ、より明確に、それこそ忖度なく差別の本質が見えてくるしくみになっています。
まさに多恵子の存在意義、ここに在り、という感じです。
自然界の万物がある意味同じ重さで感じられる多恵子の視点は、「殻の中にすっこんだデンデンムシ」に象徴される様々な差別的事象がそれぞれに連関性を保ったまま、きちんと心情に偏ることなく、その分散化された権力と支配構造の絡んだ糸を解き、読者の側へわかりやすく提出させています。
「多恵子、上がってこい」
道行の往路の長さに比べれば、ひと時の海水との戯れは極めて短いものでした。私はここにも重要な作品としての意図とメッセージを感じました。失対小屋のカンナに包まれた戯画的な火事の錯覚の場面を頂点に、まさしく事実を「事実」として描くことだけが小説でないことを見事に実証しているかのようです。
当然ですが信夫が海へ連れていくことと多恵子が海へ連れて行ってもらうことはその目的(本人の思い)は違います。それは視覚的には「火事になること」と「火事になったように見える」ことの誤差と付随して生じます。このとによって私たちの日常にはびこる虚言や迷信の闇からの覚醒を少なくとも、父と娘は自らの道行の過程で意識の変遷として経たことを突き付けてきたようで、ドキッとしました。
そうです。私たちは決して「事実」を「事実」として生きているわけではない、むしろ事実でないものを「事実」として生かされているのだと。
欲を言えば、やはりラストがやや単調かな、とそれまで高次なプロットの連結を保っていたがゆえに、多少低まったかなという思いを抱きましたが、本当に私にとっては刺激的で勉強になる作品でした。

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