「共」に「生」きる。 in 阿蘇

ミヤモッちゃんの最近見たテレビより

先日、たまたまテレビを見たら、今福龍太氏の『ブラジルから遠く離れて』という本の紹介があっていました。
当然のように、彼が影響を受けたレヴィ・ストロースも話題になり、今福氏が、レヴィ・ストロースが滞在したり、研究したフィールド・ワークを自身も周り、レヴィ・ストロースと同じ場所とアングルで自身の肖像的なフォトも撮っていると聞き、ふと、かつてビートルズにあこがれた若者が、こぞってイギリスへ旅し、アビー・ロードを同じように歩く写真を撮っていた話を思い出し、クスッと笑ってしまいました。(これはあくまでも余談です……)
さて、肝心のレヴィ・ストロースですが、1908~2009年、つまり100歳まで生きた、言わずと知れた構造主義の大家であります。パリ大学で哲学教授資格試験に同期の中では最年少で合格、合格者にはJ=P・サルトルや、シモーヌ・ド・ボーボワール、M・メルロー=ポンティ、といった人たちがいたというから驚きです。
「哲学」―これはヨーロッパ、ことフランスにおいてはその地位は格段のものがあり、将来は安泰です。しかし彼は、その地位を捨て、26歳(1934年)で当時まだヨーロッパでもなじみの薄かったサンパウロ大学での人類学教授になります。
そのあたりの件は、彼の名著『悲しき熱帯(中央クラシックス・川田順造訳)』第二部、旅の断章の「どのようにして人は民俗学者になるか」に詳しいのですが、ここで最初のテレビの内容に移ると、司会者を始め、一応、文学や出版物に詳しい人たちが顔をそろえ、レヴィ・ストロースのことを自分なりに語るのですが、やや焦点の合ってなさというか、少々期待外れのものがありました。
ある女性作家? らしい人は、「去年亡くなったので、読んでみようと思ったんですが、なんとなく読みずらくって、読んでなくって、あんまりわかんないんです」と平気な顔で笑っている始末。また別の男性は、「『悲しき熱帯』はすばらしい本でした」と常套句を並べ、「彼の著を読んでいると、人間の進歩が実は退化ではないか、そう思えてきます」とこれまたよく言われる言葉のオンパレードです。少しまともだったのは、ゲストの中では中心的評者が「彼が『悲しき熱帯』を書くまで、フィールド・ワークの調査から20年近い歳月が過ぎている。このことに注目しなければならない。この時間の置き方、身の置き方が大事だ」というものでした。
で、私が、誰かが言ってくれるのではとじっと期待していた内容、そう、なぜ彼が、『悲しき熱帯』を書くまで、それだけの時間を必要としたのか、その根底への問いでした。
彼がユダヤ系フランス人であり、いったんブラジルからフランスへ帰り徴集を受け、第二次大戦ではマジノ線(ドイツ国境の要塞地帯)に配属され、ヒトラーが、当時中立国だったベルギーをぬけ裏へ回るという、掟破りの作戦をとった結果、なすすべもなく敗れ、今度は立場は一転し、ホロコーストから逃れねばならなくなったこと、その事実をそこにいる人は誰も語ってはくれなかったのです。
フランスの敗北後、ドイツ占領がはじまるのですが、彼はそこで決定的な体験をします。
様々なコネや人脈を使い、なんとかフランスを脱出しブラジルへ向かおうと、ビザの更新を申請にいったとき、ブラジル大使館の許可の捺印がされようとした瞬間の出来事です。
「一人の参事官が、うやうやしく、冷やかにそれを押し留め、捺印の権限は、新しい行政措置の結果、たった今、大使から取り上げられたところである旨を注意した。数秒の間、印を持った腕は空中にあげられたままであった。大使は、気遣わしげな、ほとんど懇願するような眼差しで、印鑑がおろされるあいだ、むこうを向いていてくれるようこの下役に許しを求めようとした。そうすることで、私がブラジルに入国しないまでも、フランスを離れる許可は与えられるのだ。だが、その甲斐もなく、参事官の目は大使の手の上に据えられたままであった。大使の手は気抜けしたようにおろされたが、書類の横にであった。私は査証(ビザ)をもらえないことになり、パスポートは、同情をこめた仕草とともに私に返された。」『悲しき熱帯(中央クラシックス・川田順造訳)・第一部 旅の終わり・2 船で、より』
その後、新たな渡航手段を見つけよとマルセイユの港を彷徨いつつ、「もう自分が、強制収容所の獲物になったように感じていた」と言います。
それでも運よく渡航船のキップを手に入れ、憲兵から「賤民ども」と呼ばれながら、船では、詩人でシュールレアリストのアンドレ・ブルトンといっしょだったことなど『悲しき熱帯』に詳述されています。
故郷を捨て脱出する、つまり異郷の民となること……。異郷(ゴルバ)の体験、これこそ私は、『悲しき熱帯』を書くまでに長き時間を要させた最大の要因だと思っています。
思えば、当時「構造主義」の隆盛の影には、根底にこの「異郷」の思想があったのではと言えなくもありません。ミッシェル・フーコーは同性愛者であり、将来、医者になることを期待されつつ、そのプレッシャーと己の性的志向性に対する煩悶で苦しみぬきました。いわばジェンダーとしての「異郷」者と言えます。ジャック・デリダについては、『アラブ、祈りとしての文学』(みすず書房 岡真理著)に以下のように書かれています。
アルジェリア出身のデリダはユダヤ教徒であったため、フランスのアルジェリア植民地支配により「フランス人」とされ、アルジェリア独立後、フランス人植民地たちがアルジェリアから追放されたように、フランスにいた彼は故郷に帰還することを禁じられた。デリダは、アラブ・イスラーム侵入以前の北アフリカ先住民であるベルベル人の出自だが、植民地主義の結果、故郷から身を引き剥がされ異郷を生きるという彼の生は、「ゴルバ」という、近代アラブ世界の普遍的歴史経験をまぎれもなく分有している
レヴィ・ストロースに起こった困難は、そのわずか数年ののち、「ナクバ(アラビア語で『破局』や『災難』を意味する)」として今度は、パレスチナの地で、反対にユダヤ人のイスラエル国家樹立という大義のもと引き起こされます。
長くなりましたが、異郷を生きる、生きざるをえなかったという意味。そのことぬきに、陸続きの中、様々な民族や言語、宗教をもつ人たちが、地下マグマのように蠢く各自の文化や歴史を基盤に、「国家」を形成し、「他者」を見る視座を獲得しつつ著された「本」、その一冊なりとも読みこんでいくことは不可能なのではないか。
そんなことを考えた土曜日のひとときでした。

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