「共」に「生」きる。 in 阿蘇

東俊裕さんの講演で印象に残ったこと

障害とは?
私はなぜ障害者なのか?
あなたは『なぜ』障害者ではないのか。

東さんとは「夢屋」設立以来、何かと法律的なことでわからないとき、相談にのっていただいてきました。また、「ヒューマン・ネットワーク」代表でもあられるということで、まずは挨拶に行っておこうと思い立ち、夢屋がまだ完成途上のとき、大工仕事の合間に今は亡き下原猛さんを連れ、、お伺いもしました。
そのとき東さんは、ヒューマンのメンバーの方たちに向って大きな声で「みなさーん、ここにいる宮本さんは、教師をやめて、作業所を始められるそうです。応援していきましょう」と言ってくださったのです。なんとうれしく心強かったことか。
さてそんな東さんの講演をお聞きし、一番印象に残ったこと。それは、はたして「障害」とは何か、その位置づけ、概念、それは今もって世界の様々な場所でさかんに議論されつづけており、定義が難しいということでした。
東さんはそんな中、重要なのは、むしろ「定義」そのものより「分け方」だとおっしゃっているようでした。
つまり、あるカテゴリーに名前をつけるとき当然、他との線引きや枠づけが行われるはずですが、どこに線を引き、枠をどんな形にするかによって、その領地に入って来るものは数も質も、すべての点で変わっていきます。
大事なのは、むしろそちらなのだということ。
だから、「健常者は……」、「障害者は……」という問い方は、どうして同じ木なのに「桜」と「梅」と名前が違うのかと疑問に思い、それぞれ辞書引きし、解説を読むことで、違いがわかったような気分になっているのと同じくらい、実は、あまり意味のないことかもしれないということです。
つまり、本当に問わなければならないのは、あなたはどのような基準で、どういった「差異」をもとに「障害者」と「健常者」の線引きをしますか? なのです。
となれば、そんな分け方は千差万別、いろいろだよ、ということになりそうですが、この問題は、「人間」の生存にかかわる重要な部分になってきますので、さすがに「梅」と「桜」というわけにはいかず、ある程度の「線引き」の基準を世界で模索し、その枠のもとに必要な「法律」を整えていこうということになって来ます。
また、もうひとつ自分なりに考えたこと、それは「相手の立場に立つ」とはどういうことなのか、ということでした。
「もう少し、相手の身になって考えよう!!」
教師が生徒によく言うセリフの投票をしたら、おそらく、これはベスト10には入ると思いますが、はたしてこの言葉の本当の意味は何でしょうか。
東さんは、信号待ちしている視覚障害者の方の話をされました。
ちょうどそこに中学生も三人ほどいて、いっしょに青になるのを待っていたそうですが、その日は風も強く、周囲の動きを耳で察知することが難しかったのか、青になってもその方は渡らず、中学生だけ、さっさと渡っていったとのことです。
たまたまそれを見ていた先生が激怒され、自分のクラスの生徒だったこともあり、授業で障害者のことを取り上げられ、「白杖をついておられれば、視覚障害であることはすぐにわかるだろう、だったら自分たちが渡るとき、ちゃんと青になったことを教えてあげることが大切だ」と「人権?教育」をされたそうです。しかし、東さんに言わせれば、まさしくこれは、「人権」教育ではなく、ただのモラル教育であり、慈善教育だとおっしゃいました。
かりに中学生たちが親切に声をかける心情を培ったとしましょう。
ところがすぐに次の問題が発生します。中学生たちが登校しないとき、あるいは授業のあっている昼間、また夜間、つまりそんな声をかける人が隣にいないとき、その方はどうなるのでしょうか。
そうです。問題は、さきほどの「障害者」と「健常者」の線引きの基準をどうするかと重なりますが、医学モデル、つまり線の基準点を「個人の能力」に置くのではなく、社会モデル、すなわち「社会の対応する力」に置くことの重要さです。もし、信号に視覚障害者にもわかる音楽の機能がついていれば、その方は、信号を渡ることにおいてはほぼ「健常者」と「同じ」、つまりそちらの枠に入るということです。
学校の先生は、その基準をあくまでも個人固有の能力におき、その力を補なってあげることを生徒に示されたのでしょうが、それはあくまでも「健常者」側に立った、「ここまでおいで」式の慈善的行為にすぎないということになりかねないということです。
そこで私なりに考えたのが、さっきの「相手の立場に立つ」とはいったいどういうことかということです。
きっとその先生に、授業の真意を問えば「そりゃあ、私だって、生徒たちにしっかり相手の立場に立つことの大切さを教えたつもりです」と力説されると思います。
さて、はたしてそうでしょうか。
私たちは、困っている人を見つけて、手伝ってあげれば当然、自らも気持ちいいし、充実感がやってきます。というより、むしろそのような感情が生じることを前提に動いていることが多分にあります。
誰しもきっと、高齢者や障害者の方に、バスや電車の中で初めて勇気をもって席を譲った時の何とも言えぬ晴々しい気持は覚えておられることでしょう。(もちろん、相手の思わぬ反応から、やっぱりしなけりゃよかったという人もいるかもしれませんが、あくまでそれは結果論で、おそらく初発の感情は似通っている思います)
しかしそれらは、本当に相手の立場に立った結果でしょうか。
そのときの行為の基準は、あくまでも自分の立場で、このまま席を譲らず座りとおした時の不快感(モヤモヤ感)と、席をゆずったときの、少なくとも僅かながらの快感というか、やるべきことをやったスッキリ感を引き比べた結果、行動に移したとはいえないでしょうか。(ここで念のためですが、私はけっしてこのような行動を必要ないとか軽く見ているのではありません。社会基盤の上でも尊い行為だと思いますし、あくまでここでは「自分の立場で考える」から「相手の立場で考える」へのステップのことを考えたいのです)
しかし、もし、譲る人がいない時、あるいは周囲が手伝わなくとも、また、障害者本人も頼んだり、いちいちお礼を言う心労を経なくてもいい方法を考えた時、次の解決方法はどうなるでしょうか。
優先席を増やしたり、階段をエレベーターにしたり、スロープをつけるといった社会モデルの部分がかなりの比重で上がってくると思います。
(まして少数でしょうが、むしろ席を譲ったことを後悔した人もいるわけですから、なおさらこの方法が要求されてきます。)
で、当然、今度の働きかけとしては、役場の意見箱への投書や、直接、担当窓口へ行って交渉したり、また障害者当人の考えを聞き、ともに行動するという、やや手間のかかる事態になってくるのです。
それはやっかいなことですし、何よりも自分自身の時間を割かれますし、またそういったこともふくめ、生活にかかわるいくつかの部分や考え方に若干の変革を要求されてきます。
役場の対応にやきもきしたり、また、ときには、今までの生き方自体の問題点を直接、障害者本人から指摘され、考えの食い違いから喧嘩になることもあるかもしれません。
しかし、反対に、もっと相手のこと、つまり本音の部分を知りたいあまりに、生い立ちからこれまでのことを尋ねてみたり(あるいはその必要性を感じたり)その結果、今までにない友情や信頼が芽生えることもあるかもしれません。
「相手の立場に立つ」ということ、これはそう考えれば、なかなかにむずかしいことですが、かかわる側も、そして強いては両者が、ある意味でこれまでの「自分」というか、「自己」を超えることにもつながっていくことにも思えます。
以上、ざっと、今日あれこれ考えたことを書きましたが、すばらしい講演会だったと思います。
東さん、貴重なお話、本当にありがとうございました。

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