「共」に「生」きる。 in 阿蘇

熊本学園大学名誉教授、羽江忠彦先生の訃報を知り、心よりご冥福をお祈りいたします。

思い起こすに、あれは私が小学教員になったばかりの1989年、大津町文化ホールで同和教育の研究会があった際、発表者も今は亡き大野滋さんでした(大野さんは亡くなる直前の2011年、『腑分けの巧者ー『蘭学事始』異聞』という著を残され、部落解放文学賞の佳作に入選されました)。研究会の発表内容の詳述はしませんが、基本となる進行形態は500席ぎっしり埋めつくした出席者の名簿の中から任意に名前を上げ、立ってもらい、自分と「被差別部落」やそれに関することの初めての出会いの経験を答えてもらうという形のものでした。私はそれがどこか参加者に対して一方的過ぎるのではとの思いに駆られ、途中であるにもかかわらず挙手し意見をのべさせてもらいました。すると協力者としておられた羽江先生が眼鏡を机上に投げやるように外すや、「誹謗中傷ならやめてほしい」と激しく一喝されたのです。司会者からもかなり厳しく断じられたのを思い出します。その発表会後、私の勤務地へ県連から電話があり、私が余りに攻め立てられたように思われたのか、担当者からぜひこれからも研究会へは来てほしいとのフォローをいただきました。しかし私は、人それぞれに感じたことや思ったことを出し合ってこその研究会だろうし、むしろ肩書など関係なく、人間的に感情を露わに直截に激昂して下さった羽江先生にありがたさこそ感ずれ、嫌な思いは全くありませんでした。思えば当時、菊陽支部長だった高城雅毅さん(後の中央統制委員長)からも生意気にもいろいろ意見した果てに、厳しい御教唆を受けたものです。でもそれも羽江先生と同じく、成長のための肥やしとなり、差別と向き合い、その強固な構造を打破するのは並大抵のことではないのだということを、理屈でなく、生き方や対峙の姿勢や気迫を通し学ばせていただいたと思っておりますし、貴重な経験をさせていただいたことに今は、ただただ感謝しかありません。大野滋さんともその後、旧阿蘇農業高校に赴任された折り、そのときのことを懐かしくお話し、お互い理解し合い、パン販売の営業では大変、御世話になりました。羽江先生も病の初期ではありましたが、夢屋に来て下さったこともあります。あれから30年、お三人ともお亡くなりになり、寂しい限りですが、未熟な私に本気で叱咤激励して下さったお声を胸に、微力ながら私は私なりに障がい者の仲間たちと一緒に作業所運営をやっていこうと思っている次第です。羽江先生、本当にありがとうございました。合掌。(「夢屋」代表 宮本誠一)

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