「共」に「生」きる。 in 阿蘇

~ミヤモの最近読んだ一冊~

蟹工船文庫写真.jpg
遅ればせながら『蟹工船・党生活者』を読んでみました。
小林多喜二には当時の日本政府による民主化運動への弾圧を描いた「一九二八年三月十五』という作品がありますが、それ以外は読んでいませんでした。
学生時代、『蟹工船』をひろげたことは何度かあったのですが、その粗削りな描写に何かついていけないものを感じ、読み通せなったのです。
ま、それでも昨年はブームにもなったことでもあるし、たまたま偶然、文庫本を手にする機会があったので、二作品を読んでみました。
なるほど、人間描写はやっぱりものたりないものを感じはしますが、資本主義のある面での労働者からの搾取構造をわかりやすく描いてあるし、しかも後半は小説として若干、破綻しつつあるのではと思う部分を感じつつも、日本統治下の状況を描いた「朝鮮小説」に近い匂いを醸し出していました。
むしろ、作品としては『党生活者』の方が面白かったかもしれません。ちょっと文体的に言えば、主人公の意識の中、表記するという「虚構性」と「事実」の実存在性を重ね合わせながら、言語のもつ構造上の臨界点を暴こうとしたスパイ小説(これも日記ふうに書かれています)、阿部和重の『インディウ゛ィジュアル・プロジェクション』を思い浮かべました。
もしも、これが最後のどんでん返しで小林のすべては<妄想>であったとしたなら……。彼は間違いなく、別の「形」で80年先を生きていた作家になっていたであろうにと。
それでも、イデオロギー的に、明らかに小林が「大衆」に対し認識を取り違えているな、と思った箇所があったのでここにあげておきます。
軍需品をつくる工場で出来高が40%も上がったにもかかわらず、苛酷さを極める労働に甘んじる工員らに
「みんなは自分の生活のことになると、『戦争』は戦争、『仕事』は仕事と分けて考えていた。仕事の上にますますのしかぶさってくる苛酷さというものが、みんな戦争から来ているということは知らなかった。だから、その結び付きを知らせてやりさえすれば、清川や青年団などの理屈をみんな本能で見破ってしまう」
というところ(新潮社の文庫本で219ページ)、そうじゃなく、事実はこうではないでしょうか。
「みんなは自分の生活のことになると『戦争』は戦争、『仕事』は仕事と分けて考えない。仕事の苛酷さが、みんな戦争から来ていることも「本能」で知っている。だから、その結び付きを知らせてやりさえ(知りさえ)すれば、『戦争』の部分と『仕事(生活)』の部分を意識的にとらえことで分離でき、各々に要求ができてくる」と。
そんなこんなでも、読んで面白かったと思える一冊ではありました。

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