「共」に「生」きる。 in 阿蘇

游人たちの歌・第三章・三、父親の死、そして……

一九九九年四月十九日、トオルの父、テツオさんが突然の交通事故で亡くなった。
 深夜、自転車で道路を帰宅途中、前方不注意の大型トラックに巻き込まれたのだ。まだ五十歳になったばかりだった。晩年、澄江との関係が悪かったと言っても、夜、トオルの調子がわるいときは、ドライブに連れていったりし世話をしてくれていた父親である。
 いつか人には死がおとずれる。だが、あまりの急なことに家族を始め、夢屋のメンバーも悲しみとともに混乱に陥った。その年、既に弟は大学に進学し県外へ出ていたため、様々な諸用に忙しいマサミに代わり、私は、三気の里にいるトオルに父親の死を知らせに行った。 行く途上、私は涙があふれ、車の運転ができず道の脇に停車した。
 父親の早すぎる死が、悲しかったこともある。だが。それ以上に、その死をも家族から離れ、たった一人施設で聞かねばならない彼の存在が、痛切な悲しみとなって心に迫ってきたのだ。
「障害」とはいったい何なのか。地域で生きるにはあまりに手のとどかぬ壁があり、今、ともに暮らす力のない現実を自分自身につきつけられる思いがし、悔しさがこみあげた。
「トオル、実はね……」
 彼の部屋で向き合い父の死を説明しようと言葉にしたとたん、堪えきれず再び涙があふれた。トオルの隣りには、施設で新しくトオルを担当している指導員の石井が座り、彼も零れ落ちる涙をしきりに拭いていた。
 トオルはそんな私たちの顔を、眉間に皺を寄せぎみに、合点のいかぬ表情で見ていた。
 ある程度の説明を終えると、ゆっくりトオルが質問した。
「お父さん、生き返る?」
「生き返らない」
 彼は神妙な表情になり、顔をしばらく伏せ、上目づかいに再び口を開いた。
「お見舞いは?」
 トオルにとっては、それが葬儀の意味だ。
「明日あるから、来てね。皆待っとるけんね」
 私はトオルの手を握り、約束した。
 施設の協力も得て、トオルは無事、私たちに見守られながら、他の親族たちといっしょに葬儀に参列できた。
 それから一週間後の二十六日の正午すぎのことだ~。

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