「共」に「生」きる。 in 阿蘇

游人たちの歌・第三章・四、惜別と悲しみを乗り越えて

 世の中がプレミアムで沸き立った二000(平成一二)年の二月十日未明のことだ。
 突然にノリオさんが逝った。
 コーヒーを飲みかけのまま、炬燵で硬くなっていた。流しには吐いた跡があり、その後具合が悪くなったらしい。心不全だった。発見したのはノリオさんの家へたまにビデオを借りに行っていた近所の人で、昼過ぎに見つけた。私はたまたま、娘の誕生日のため、荒尾に帰っていて、翌日、娘たちに会うつもりでいた。実家に帰りつくやいなや、父から、今、夢屋の竹原さんから電話があったことが告げられた。 
 私はすぐに彼女に電話を入れた。竹原さんは極力落ち着いた口ぶりで、ノリオさんの死を伝えてくれた。私は我が耳を疑わずにはいられなかった。即座に娘に事情でお祝いには行けなくなったことを話し、とんぼ返りで阿蘇へ引き返した。信じられなかった。そして情けなかった。なぜよりによって、自分がいないときに死んだのだ。私はノリオさんの家に直行した。家では警察の長い現場検証がちょうど終わったところで、親族の者がさっそく集まり、今後の通夜や葬儀の段取りを決めていた。福岡のお兄さんも来ていた。お兄さんはたまたまホームに入所している父親を見舞いに来る日で、帰宅していたそうだ。弟が呼んだのかもしれないと私の顔を見るとしみじみつぶやいた。
 ノリオさんは、炬燵に入っていたため、足が膝からくの字に曲がった状態で布団に横になっていた。私はノリオさんの顔を見るなり、今にも話しかけてきそうな相手に、大きな声で詫びた。
「すいません、ノリオさん。見つけてやれずに、すいません」
 翌日の通夜の途中、ブレーカーが何度も落ち、奥からは目覚し時計が鳴り、それも止むとアラームがどこからともなく鳴り響き、闇と光、静けさと喧騒、彼岸と此岸の狭間で日野さんがふざけて、皆を驚かせているように思えた。それでもだれも慌てることなく、それがいかにも日野さんらしい姿のように、読経や焼香がつづけられ、しんみりと夜陰がすぎていった。
 葬儀で私は弔辞を述べた。切なく、苦しかったがどこかノリオさんの生き様が羨ましかった。風のようにやってきて、風のように去っていく。そうやって、ノリオさんは、地域で生きつづけたのだ。
「あんまり寝過ごして、うっかり死ぬようなことがなかごつ、注意しとってよ」
 私がたまにふざけて言うと、
「また、冗談でしょう」
 ノリオさんは笑いながら返したものだが、まさかこんなにも早く現実になるとは予想もしていなかった~。
 

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