「共」に「生」きる。 in 阿蘇

またまた、最近読んだこの一冊。

『地下室の手記』ドストエフスキー(江川卓訳・新潮社)
『震災列島』と並行しながら、読んでました。
今さら言うまでもない、ドストエフスキーが42歳の時書いた名著です。
この作品後、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』といった大作を発表していく、いわばターニングポイントになった作品です。
彼は、単に物欲に溺れている人間が「悪」であるとか、理性のもと自制心を働かせ、自らを律しているものが「善」であるとか、そんな単純な分け方はしていません。
人はときには自ら欲しなくとも、物欲に走ることもあれば、自虐、他虐関係なく、「苦」の選択をすることもありうるということです。
いやむしろその「苦」こそがときに「快楽」となって自らを慰めうるということ、すなわちその根底には、人間は「悪」を行いながらも「善」の意識を内包しつつ、その「罪悪感」に身を苛まれることで癒しているということです。
またもう一つ大きなポイントは、理性への真っ向からの否定(懐疑)です。
理性は究極は科学的合理性のもと普遍性へといきつき、「個」を超えた「群」としてのルールを構築します。
しかし人間個々の「自我」は、自らがつくりだしたにもかかわらず、その地盤へ着地することを是としません。
なぜなら、「個」であること、実存としての存在に脅えつつも、「個」としてありつづけ、滅することは人間の「本性」だからです。その意味で、そもそも人は矛盾をかかえた存在であり、かつ不条理を生きざるをえない運命にあると言えるでしょう。
そのもっとも具現化された形に、カミュの『異邦人』のムルソーが挙げられるような気がします。彼(カミュ)はドストエフスキーの思想の最大の継承者の一人と言っていいでしょう。
それにしても古典は、その年齢年齢で読むたびに感じ方がかわるというか、深まる気がします。そんなことを考えさせてくれた一冊でした。

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