「共」に「生」きる。 in 阿蘇

第八話・女かぶきから若衆かぶきへ

                                  松五郎
徳川三代将軍家光は、若衆好みで有名でした。
若衆かぶきというのは女かぶきと並立するように興行していたのですが、徳川幕府の安定とあいまって、人気を呼ぶようになりました。
決定的だったのが先の稿で述べた1629年の女かぶきの禁止令です。
競う相手のなくなった若衆かぶきは隆盛を極めます。
今で言う若いイケ面が歌舞音曲を演ずるようなものです。
しかし、容色を売るという点では、女かぶきと変わりませんでした。
若衆買い、衆道、男色と言われるように、若い青少年たちがいまでいうホモの対象とされました。
これは戦国の世、戦場では女はなく、若い男たちが性の対象とされた名残のようなものです。
一例ですが歌舞伎十八番の内「毛抜き」ではそんな場面が登場します。

若衆は宴席に侍して男色の対象となりました。

若衆かぶきはこの衆道を背景に繁盛します。
男色は武家僧侶の間だけ行われたといわれますが。
若衆かぶきの隆盛によって町民の間にも広がっていきます。
風紀を乱すことおびただしくなってきました。しかしながら支配者の頂点にある、前述の将軍家光は若衆かぶき一座を城中にまで呼んで見物した記録があります。幕府は家光が他界すると待っていたかのように、(1652承応元)年に若衆かぶきを禁止します。
興業者の再興を願う懇願に、幕府は二つの条件を付して許可することになります。幕府も押さえつけだけでは、民衆の鬱積した不満がたまるのをおそれたのでしょう。
まず若衆の前髪を剃ること。二つめは「ものまね狂言づくし」で演ずることでした。野郎歌舞伎の出現です。若衆かぶきの禁止が実は歌舞伎の発展に大きな転機を与えるのです。
まず女形芸の発達を促すことになります。
若衆かぶきにも女形は存在していますし名前も残っています。ただしどんな芸風だったかは知るべきもありません。
美しい前髪を剃って、野郎頭にすることは命令とはいえ、風俗を描写し舞い踊っていた若衆に、写実芸へと転換を迫るものでした。
幕府の弾圧は女形の芸と、写実なものまね芸能へのきっかけを生むことになったのです。
すでに容色だけが売り物ではなく、芸によって観客を魅了するものにならなければならなかったのです。
このあと元禄歌舞伎まで30年あまり興行者や、役者の努力によって歌舞伎の世界が広がっていくのです。
(女かぶき、若衆かぶき、野郎歌舞伎と使い分けました。性格が違うと拙稿判断したためです。以下原稿)
  

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