「共」に「生」きる。 in 阿蘇

第七話・かぶくこと、踊ること、おんな歌舞伎

                                松五郎
時代の変革期には、必ずといっていいほど、踊りが出現します。

今、お年寄りの中では社交ダンスが盛んですが、若い人が一昔前か二昔前のように、ジルバやマンボを踊っているでしょうか。よく大学のサークルや労働組合の主催でパーティ券売ってダンスパーティなんかやってました。
新しいリズムもどんどん出てきましたが今は出てきません。
皆無です。
ダンスがはやらなくなっています。
はっきり言えば、今は時代の変革期でないということの証です。
バレーなどダンスが見るものになっています。
人が解放されるとき、踊りの流行が社会現象になって現れるものだと言われています。
 
ところで話を四百年前に戻します。
1600年代です。安土桃山時代を経て、関が原の戦いによって、徳川幕府が成立します。社会が安定し生活と開放の喜びがみんなの中にあふれ出た時代だったといえます。
そこで現れた踊りは女能、女舞、風流踊り、念仏踊りなど享楽的で官能的なものでした。
演じたのは巫女の流れをくむものや遊女でした。
その中でも京都を中心に活躍した、出雲阿国(いずものおくに1600年頃)の率いる舞踊集団です。1600年と言えば、関が原の戦いがあった年です。
お国は始めは念仏踊りを行って、鉦や太鼓を叩きながら踊っていましたが、やがて
男装し長刀までさして、風俗を描写するようになりました。
そこに男性も加わるようになり、女に扮し、道化まで演ずるようになりました。
そこには戦の時代が終わった解放感と、性の倒錯があったようです。
これは京都が主でしたが、瞬く間におんなかぶきは徳川親藩を中心に雄藩に広がっていきました。
世間ではそれをかぶき踊りそしてかぶきと呼ぶようになりました。
もともとかぶきとは「傾く」から生まれたもので、風俗や踊りそして諧謔、好色まで含むような言葉になりました。歌舞伎というのは後世の当て字にしか過ぎないのです。
おんなかぶきは時代の変革期大変流行しましたが、彼女たちは女優であると同時に遊女でもあったのです。
そのため民衆に強い刺激を与え、享楽的な雰囲気は治安風俗を乱すと、成立したばかりの幕府は考えたのです。
ついに三代将軍家光の時代「女舞、女歌舞伎、女浄瑠璃等一切禁止(1629)」することになります。
おんなかぶきが興ってから30年にも満たないうちです。
興行側では、そこに混じって女が一座に混じって出演するという、提案をしましたが、翌年に「男女混交の儀もってのほか」という布令によって、おんなかぶきと、女優は姿を消すことになりました。 
                       (自稿、若衆かぶきに続く)

2 Comments

  1. 西欧の社交ダンスや、南洋のタヒチアンダンスを例にとるまでもなく、民衆の舞踊は、よく風俗を乱すとか刺激的すぎる理由で禁止されてきてますよねえ~。
    でも、けっこう、その後、ときの権力者たちは、自分たちだけでこっそり鑑賞したり、楽しんだりしてた例も多いようですが、そこで松五郎さんに質問がりあります。
    女歌舞伎はそんなことはなかったのですか。
    教えてください。
    私はいつも思うのですが、あの「映倫」ですか、ぼかしをどこに入れるか考える人たち、あのお方たちなんかその部類に入る職種だといつも思いつつ、自分たちだけズルイぞ~と、ちょっと感じていた人間です。
    松五郎さん、これからも歌舞伎の記事楽しみにしていますので、「あぱかちゃーっ」て思わず叫びだしたい気持ちのとき、コメント書きますから、よろしくお願いしますね。

    コメント by あぱかちゃー — 2006年10月18日 @ 11:25 AM

  2. 女かぶきですよね。これは記録に頼るしかありませんが、徳川家康は自分の住む駿府から(1608、慶長13年)に女歌舞伎を追放しています。(1629、寛永6年)三代将軍家光は女かぶきの禁止令を出しています。これによって女舞、女歌舞伎、女浄瑠璃は芸能の歴史から消えることになります。幕府の芸能に対する弾圧政策です。首から赤い紐で胸に下げた鉦を叩いて念仏踊りを踊ったり、胸に十字架を下げて踊る阿国かぶきは評判を呼びます。(1617、慶長12年)には出雲阿国が江戸に下り、城中で勧進かぶきを演じるまでになっています。しかしながら翌年には出雲阿国のおんなかぶき一座の消息は途絶えています。
     ただ、女かぶきの流行は禁令が出るまでは大変な人気でした。京都の遊郭までが便乗し、かかえの遊女たちを男装させ、四条河原で舞台をこしらえ、当時琉球を伝わってきた新しい楽器、三味線、それに太鼓、笛で囃し立て、たいそうな賑わいだったということです。

    コメント by 松五郎 — 2006年10月18日 @ 9:47 PM

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