「共」に「生」きる。 in 阿蘇

2015『夢屋だより』夏号からの文章です。

いつもお世話になっている皆様へ、夏のご挨拶をさせていただきます。 
2015  7/14  作業所代表 宮本 誠一

ここ最近、大雨を始め、台風や火山活動などが各地で活発になり、お便りの最初のご挨拶は、いつもこの台詞になってしまいますが、皆様、お変わりありませんでしょうか。今月初めの雨も相当なものでしたが、作物被害など大丈夫でしたでしょうか。
さて、夢屋の方は、新メンバーの山内裕子さんもすっかり慣れ、仲間たちとパンづくりや配達、農園の畑仕事、それに得意なイラスト描きなどを楽しくやっています。
ところで国内の世情に目を向けますと、憲法の「違憲」「合憲」の観点を含め安保関連法案をめぐり大きく揺れています(7/15 の衆院特別委で与党単独により強行採決)。
ちょうどそれと重なる番組で、『域外派兵で何がおきたのか~ドイツ連邦軍・アフガニスタンでの13年』というドキュメンタリー(再放送)がテレビであっていました。
ご存じのようにドイツも日本同様、戦後はドイツ連邦共和国基本法(憲法)のもと侵略戦争を禁じ、長年、専守防衛に徹してきました。しかし湾岸戦争時(1990~1991)での資金のみの提供への「小切手外交」との厳しい批判、ユーゴスラビア紛争(1991~2000)という逼迫した状況を受け、国会での激論の末、1992年にNATOの定めた領域外での派兵を閣議決定し、1994年には連邦憲法裁判所での判例により「防衛」の拡大解釈とともに議会の事前承認を得ることを条件に域外派兵が認められ、ボスニア・ヘルツェゴビナやコソボなどに続き、アフガニスタンへの派兵にも踏み切ることとなります。
番組では13年間で、のべ15万人が派兵された中55人(ちなみにボスニア・ヘルツェゴビナでは19人、コソボでは27人)が亡くなり、さらに1200名が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を発症したことを報告していました。特に印象的だったのは、最初は復興支援や治安維持の下行われていた活動も、任務地が広がったり反対勢力の攻勢が増していくと次第に状況は変わり、敵と対峙しての撃ち合いはもとより、ミサイルが毎日飛んでくる激しい戦闘状態が日常化していったと元兵士たちが話していたことです。ある兵士の場合、高校卒業後、とりあえずと考え入隊し、戦車の整備をしていたところ一緒に働いていたアフガニスタン人スタッフが突然銃を乱射し亡くなったそうです。その母親は時が止まった悲しみの中、息子の派遣と死に果たしてどんな意味があったのか、今でも問い続けずにはいられないと言っていました。
安保関連法案が今後どのような方向へ行くにしろ、「戦争」という手段では結局は国と国との本質的な問題解決にはならないし、人と人がそうであるように話し合い(外交努力)を重ね「信頼」関係を築いていくことでしか「平和」や「共生」への道は見つからないのではないか、そんなことを考えさせられました。では6月から8月までの行事をご紹介致します(予定を含む)。

6/27~28 熊本市内から野菜tyにご宿泊(7名)
7/25 部落解放文学賞受賞式(大阪)に宮本出席(小説『偽日』が佳作)。
7/26 池邊美早さんの25歳のお誕生日。
7/30 阿蘇市学校人権・同和教育部会課題別研修会にメンバー、スタッフが講師として参加。
8/15 北九州から野菜tyへご宿泊(2名)
8/28 山内裕子さんの19歳のお誕生日。

 

大雨のときに思うこと           下村津代

7月1日は明け方から凄い雨で、とても不安でした。雨や風の音がすさまじく、それが耳元へ迫ってくるようで、三年前の7.12の豪雨水害のときを思い出し、とてもこわかったです。情報を得ようとラジオはずっとかけていました。市からもお知らせ端末で、ときどきお知らせが入ってきますが、雨風の音のすごさもあって、心細くてしょうがありませんでした。
それにしても思い出すのは7.12のときのことです。手野の実家の兄家族は、早目に私の家へ避難してきていましたが、今町の弟は家にいてこちらも心配していたところ、あっちから安否を気づかう電話が来ました。そっちは大丈夫ね? と尋ねるとあっと言う間に床上浸水して、今、二階に退避しているところだというではありませんか。そんな大変なときにも、こちらに電話をくれる弟に心から感謝しながらも、結局、いざというとき何もできない無力さに、なんとも言えない気持ちになりました。ウルマは、私が落ち着かない動きをしない限りは、いつものようにハウスで寝ていますが、私の方があんまり怖いときは外に出してやり、そんなときは自分から隣にきて寝てくれます。本当に心強いです。これまでも、もし一人だけだったら過ごせただろうかという日が何回もあり、彼女の存在は大きいなあと思わずにはいられません。
ところで前回の初夏号でガイドヘルパーさんに移動支援をしてもらいながら買い物や散歩をしている話はさせて頂きましたが、ヘルパーさんが皆さん口をそろえておっしゃるのが、道がこんなに危険で歩きにくいとは、実際に一緒に歩いてみて初めて気づきました、という言葉です。歩道の凹凸や道路を補修したあとのちょっとしたコンクリの厚みの差でも、足を引っかけ、躓いてしまいます。また意外に困るのが個人のお宅の生垣から飛び出している枝類です。突発的に顔にぶつかってくるため、もちろん除けることはできませんし、反射的に避けた瞬間、今度は道路の方へ動いたりし、とても危険なのです。まだまだいろんな面で、外を安心して歩けないなあと実感している毎日です。

 

♬『久々の故郷』♬      ‡中島 地利世‡
最近よくTVで「対馬」が放送されて、思い出の場所がどんどん変わっているのを見て「全て変わる前に帰りたい…」と思っていたので、5月の連休は対馬に帰って過ごしました。
1人の気楽旅なので、今までとは違う方法で帰ってみようと思い、まず博多駅まで電車を
使って行きました。そこから、バスで博多港まで行きました。
夜の11時位に出港して4時間半後、目的地の厳原の港に着くとまだまだ夜中だったので、当たり前ですが外は真っ暗!そんな中、従妹がわざわざ迎えに来てくれていました。
着いて真っ先に向かったのは、1年前位から糖尿病になった事と、高血圧のせいもありここ最近、急に元気がなくなっている伯母が気になっていたので、伯母の自宅に行きました。
思っていたよりは元気そうで、たくさんお喋りしてくれたのでホッとしました。
そのまま伯母の家に泊めてもらう事になり、少し休んで昼過ぎになると、1日目は阿蘇に来るまで住んでいた曲(まがり)という村に行き、今は無人の自宅にもよりました。
それからお墓を掃除して、近所にある小さい頃よく通った旧海水浴場に行きました。
そこが一番変わってしまっていて、すでに半分は埋め立てられていました。
夕方まで泳いだ場所も、父と魚釣りした防波堤も無くなっていたのが、衝撃的でした。
隣の地区まで行くのに便利な道を作る為らしいですが、村の人もやっぱり寂しそうでした。
それでも、懐かしい潮の香りは小さい頃のまま何も変わらず、心地良く感じました。
翌日、従妹が車を運転してくれて朝からまず向かったのは「日吉台公園」という公園です。
そこには一番人気の「ぞうさん滑り台」というのがあって、像の形で小さめの一軒家ぐらいはあるほどの大きさの滑り台でした。
お腹の部分が部屋みたいな空間で雨風も避けてくれるので、小学生の頃いじめられていた時期に母に心配かけたくなくて、時々「行って来ます」と玄関を出ては、そのまま学校に行かず、ぞうさん滑り台のお腹の中に何度か隠れていたりした事もありました。(苦笑)
古くなってきたので取り壊されると聞き、行ってみると幸い?お世話になった象さんはまだ残っていてくれました。本当に古くなっていましたが、せっかく来たので滑ってみようと思い入ると、やっぱり大人になった自分には小さく感じました。^^;
その後も思いで巡りの旅は続き、遠足でよく行った「鮎もどし自然公園」は名前の通り、鮎が戻ってくるキレイな川があり、そこで釣れた新鮮なお魚でバーベキューをしました。
すぐ近くには青芝の上をソリで滑るスキー場があって、多くの観光客で賑わっていました。
次の日は、浅茅湾の上に架かる有名な「万関橋」を渡り上対馬町の方に向かって、TVでよく出る観光名所「異国の見える丘展望台」、「豊砲台跡」、最後に「対馬野生生物保護センター」に行き、久し振りに本物の保護されている「ツシマヤマネコ」を見て来ました。
書きだしたらキリがない位、たくさんの場所を周り多くの懐かしい人と会話できました。
さすがに帰りはちょっと疲れていたので、なるべく早く博多に着きたいと思い「ヴィーナス」に乗ったら、対馬海峡の波の様子が穏やかだったので普通の船より半分も早く着きました。急に思い立った旅行プランでバタバタでしたが、とてもリフレッシュ出来ました。

        屋久島からのインタビュー記事です。

豪雨災害から3年。阿蘇山の噴火なども心配されたここ最近でした。さて、鹿児島では口永良部島が噴火し2か月近く立ち、屋久島への避難と仮設住宅での生活が始まっています。そこで今回は屋久島でスポーツ店を営む傍ら、島の地学同好会副会長をされている中川正二郎さん(宮本の大学の先輩)に噴火当日から現在までの様子等についてお聞きしてみました。

5/29日、10時頃だったと思います。店内での仕事中、防災無線で「屋久島町噴火警戒レベル5。避難して下さい。」の緊急放送がありました。いつもなら、ピンポンパンという鐘の後、職員の生の声でアナウンスがあるのに、そのときは録音された音声が流れ「おや、へんだな。口永良部島の噴火に違いない。(同島も屋久島町)」と思い、外へ出ると山陰から濃い雲らしきものが見えました。まさかこれは噴煙だろうか。私の店は島の東側(宮之浦)ですので、反時計回りに西側へ行かなければ口永良部島が見えません。店員に留守番を頼み、一湊から吉田に抜けるトンネル先にある「東シナ海展望所」へと急ぎました。
本当に驚きました。トンネルをぬけるとそこは雪国ならぬ、これまで見たことのない異様な情景が広がっていました。その日は雲一つない青空だったのですが、空一面に口永良部島の新岳の噴煙が立ち昇り、島全体を呑み込まんばかりに覆い尽くしています。さらにその日の風向きから、屋久島まで噴煙が届くのは時間の問題に思えました。既にかなりの人が集まっていて、心配そうに見ていました。やがて口永良部の人全員無事との連絡が届くと、皆、一斉に安堵の声を上げたのを今でもはっきり覚えています。私はその後、地質研究もやっている関係上、いくつかの研究者から「火山灰を採取しておいてほしい」との連絡を受け、さらに西へと向かい屋久島に落ちてきたばかりの灰のサンプルを集め、店へ帰ったのは4時近くになっていました。避難者の船が間もなく着くと言うのでそちらへ向かうと、名前や健康状態の確認のため、全員降りるまで一時間ほどかかりました。知人も元気で、まずは無事を喜び合いました。
翌日、教育委員会から避難児童が来週から学校へ行くことになるがランドセルがないため、何か代用の物が用意できないかとの相談があり、登山客用のレンタルのリュックとTシャツ二枚ずつを13人分届け、寄付することにしました。屋久島の皆さんは、それぞれに今自分にできることはないか考え、ボランティア活動にも積極的です。同じで町で行政区も一緒で顔を知っている者同士ということもあって、普段から助け合いの関係が出来上がっていたことも大きいと思います。また今のところ一人の犠牲者も出ていないことが、いろんな意味で今回の災害をプラス思考へと変えていってくれているように思います。やはり何よりも優先すべき大切なものは、人命に尽きるのではないでしょうか。
私の大事にしている言葉で島原の漁師さんの「荒天の準備は大袈裟にせろ」と言うのがあります。つまり常に自然をあなどらず、想定外のことまでしっかり考え備えておきなさい、けっしてやり過ぎはないということです。今回、口永良部島の島民は噴火21分後には全員の無事を確認し、その日の内に全島民が屋久島へ避難しました。この迅速な対応は、毎年行ってきた避難訓練や、特に昨年8月の噴火以来危機感と緊張感を持った訓練と対策を行ってきたから出来たことです。阿蘇の皆さんもこれまで大雨や火山の噴煙など自然災害で大変な思いをされていることを新聞やテレビで知るにつけ、胸が痛んできました。でも日本列島がそもそも火山地帯にありますし、地震や台風も多いわけですから、お互い情報交換しながら、前もってきちんと災害に備えておくことが大切かなあとつくづく思う今日この頃です。
(中川さん、お忙しい中、貴重な体験談とご意見、ありがとうございました)

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