「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『父を想う』        佐藤清子

新しい夢屋ができた。バンザイです。
竹原幸範先生の屋敷の一角を無料で貸していただき、できたのです。
屋敷の中をうろうろする私は、先生にぜひお会いしたいと思ってました。その時が来ました。
先生と娘のナホ子さんのたたづまいと先生の毎日の事をうかがって、ふつふつと私の父への思いがわいて来ました。
父は、昭和10年代に私の母と養子縁組として、一緒になったんです。昭和20年代に宮地小学校の教頭をしていました。昭和20年に戦争が終わりアメリカ軍の支配のもとの教育は1800転換のもので、いかに実際の教育とすすめていくか、とても大変な事でした。
常々、血圧が高いと有住先生(今はもうやめられてる)に診てもらっていた。昭和24年10月24日、風呂にはいり、あがってしばらくして、気分が悪いと言って休んだ。しかしその時、脳いっ血も起こしていたのです。私は父の休んでいるお布団のすそのところで、父の足をしっかりにぎっていた。母は「どうして、私を残していったんですか?」とたんすをたたき泣きくずれた。
そんな姿を何回も見た。
小学校三年生だった。父と私と兄は夜になると机を並べて、算数や漢字の書きとりなどをして勉強した。
はなまるではなく、2重まるだった。それを終えると、父はガリ版のキーという音をさせながら遅くまでやっていた。母と口論した時など、すぐに「清子をつれて二見に帰る」といつも言っていたそうです。夏休みになると二見への里帰りが毎年ありました。母たち夫婦と子供4人汽車の乗り降りは大変でした。豊肥線も信じられない程、いっぱいで熊本駅での乗り降りも大変でした。
父と男の子3人が先に乗り私を窓からホイっと乗せていたそうです。私は特に小さくて、小学校に入学するのを一年のばそうかという話もありましたが、私は、皆と一緒がいいと言って実現しました。父は私にピアノを習うことをすすめ「銀のすず」という雑誌もとってくれました。ビックリすることは、あの時代に歯並びが悪いので橋生することでした。何年間か銀の色をした歯でいました。現在の宇治歯科の祖父の方にしてもらいました。完全ではなくても、少しは見かけが 変わっていました。父の私への入れこみはたいしたものだったようです。
八代市二見市松町というところに生きるのはよういではありませんでした。二見駅で汽車を降りて大人の足で1時間かかる位のところです。ここでまたびっくりすることは、リアカーをもって、出迎えして下さるのです。子供4人と荷物をのせて大人は歩き、いとこの奥さんがリアカーをひいたりおしたり、夏の熱でこの時間にさぞきつかろうと思いました。
6年間の小国での先生(臨採)を終えて、自分はまだしたいことがあると帰って来ました。「お母さん時間があるとたい、どこか行きたいとこないね、どこでもつれていくよ」と言ったので、初めてのさそいに私はすぐ二見にいきたいと希望し一時間半程、車で走り無事二見につきました。玄関をあがり座しきを通って仏間にはいりお参りしました。
これは、父と一緒の夏休みと同じでした。私はお礼のつもりでご仏前をつつみ、おかしのおみやげをよこにおいておがみました。私はあの小さかった頃の里帰りのお礼のつもりで来たのに、またまたごちそうできょうしゅくしました。昔の二見のお墓はたんぼのあぜみちをいくつも通っていっていましたが、すぐ近くによせ墓を作ったと案内されました。阿蘇あたりの墓のようにとうろうなどでかざらない素朴な、でもガッシリした墓でした。お参りして昔のなつかしい話しがたくさんありました。娘は親戚の男の子とすぐ仲よくなり、たんぼの中の赤へらなどをとってキャーキャー言っていました。
父の魂は風にのってこちらに帰っているような気がしました。娘と二人でドライブがこんなにして二見に行き、帰りにもおちつき、とても楽しいものでした。

1件のコメント

  1. 初めて投稿します。 すごく内容の濃いブログですね♪ また、お邪魔させて頂きます。

    コメント by あやか — 2008年9月3日 @ 8:10 PM

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