「共」に「生」きる。 in 阿蘇

2007・冬号より。チーさんのおばあちゃんお話です。

私のがばい(すごい)ばあちゃん》   チーより
いよいよ、今年最後の【夢屋便り】で“一年間の出来事”を書きたいと思いましたが私にとって今年最大の出来事といえば…やっぱり、最愛の祖母が亡くなった事です。
私が阿蘇に来て、10月で6年が過ぎましたが…阿蘇に来るまで、23年と半年の月日を毎日ずっと一緒に過ごしてくれた祖母が8月27日に89才で亡くなりました。
今年のお盆に帰省した時「後4ヶ月頑張って、一緒にお祝い(卒寿)をしようね」と笑いあっていた矢先で、正直「今でも、まだ対馬にいる…」という気持ちがあって「もう、この世にはいない」という実感が持てないままです。
子供の頃から耳が不自由な関係で、人付き合いが苦手で寂しく過ごしていた日々に一人で大事な存在(祖母・両親・姉・友達)全ての役割を引き受けてくれる人でした。
おばあちゃん達のグループで山登り(紅葉見物、栗拾い、薪拾い、柿収穫)をしたり海水浴場、公園などを掃除したり、ゲートボールの試合にまで一緒に参加しました。
私がよくいじめられていた時は、遠くから木刀を持って走って来ていた姿が怖くて自分まで、一緒に逃げ出したかった位の迫力でした。(笑)
とにかくお話が大好きな人で、一番よく話してくれたのは戦争時代のお話しでした。
戦闘機が対馬に攻め入った時、自宅の近くを避難中に三男を背負いうまく走る事が出来なかったので、弾丸が足をかすったらしくて…その時の傷がまだ残っているのを見せてもらったこともありますが…小さくても本当に生々しい傷跡でした。
おふう曾おばあちゃん(ばあちゃんの母)の事もお話ししてくれました。
戦争時、日本に来てひどい差別を受けて、ご飯や水もまともに与えてもらえなかった韓国の兵隊さん達に「日本の母」と慕われて、憲兵さんには内緒でコッソリ家に招きお世話をしてあげていたらしくて、家の中がにぎやかで、ばあちゃんが子供の頃にはよく兵隊さんたちに遊んでもらったり、歌を歌ってもらったと話してくれました。
対馬に行って、ばあちゃんや伯母さん達に「夢屋」の事を初めて話した時に、親戚中
「そんな金にもならんとこに行って何になっと」
「ない時のかずらにされるだけ」
と周囲から散々と言われる中で、
「金にならめえと、うなが一生懸命に頑張りよっとなら立派な仕事たい」と言い、
「ばあやんも、頑張ってちとせの子を見るまでは死なん」
と言うので
「死んでほしくないけん生まん…」
と言ったら
「ほんなこて、うながようなにくじゅうもんとなごうおってくれる、「夢屋」の人達は変っとらるね」
とばあちゃんだけは、「夢屋」のみんなの事を褒めて?頷きながら笑っている人でした。
「何事も中途半端な気持ちや行動は一番でけん、人の信用はなくすとは簡単でん取り戻すとは、どんだけ難しい事かしれん。それを考えてうごかなぞ」
と、そればっかりよく厳しく言い続けていました。

1件のコメント

  1. こんにちは。ちょっと、お時間がありましたので覗かせて頂きました。最近?からお見かけするようになったこちらのコーナーを特に面白可笑しく読ませてもらっています。ところが、意味がわからなくて気になる内容が…去年の最後?の事ですみませんが、チーさんの『私のがばいばあちゃん』というタイトルで、お祖母さんの事を書かれた記事で、『ほんなこて、うながようなにくじゅうもん』という言葉と『ないときのかずら』とはどういう意味なのですか?もし、失礼な質問でしたらすみません。私的には、お祖母さんの事をとても大切に思うこの文章に、すごく感動したので、是非、教えて欲しいと思いました。

    コメント by S — 2008年2月17日 @ 5:34 PM

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