「共」に「生」きる。 in 阿蘇

長崎の江口宣さんから、いただきました。ありがとうございます。

「夢屋・秋の号」を送っていただき、ありがとう。
夕食の後、すぐに読んでしまいました。
この五月にお伺いした大きなテーブルのある部屋が、みんなの集まる場所なんですよね?
読みながら、あの家の中に、いろんな個性的な声がいくつも響いて、わいわいと語りあっている様子を、かってに想像してしまいました。
でも、その声の奥に、なんだか人間だけが背負わなくてはならない、哀しみのようなものが、みんなの声が透明であるだけに、透けて見える気がしました。
ああ、なんて、ぼくと同じ哀しみを背負った人たちなんだろうってね。
ぼくは年長者だから、かれらの声を聞いても、一緒には泣けないのです。


こちらこそ、お返事ありがとうございます。

そうですね。彼らは、いっしょうけんめいですよね。笑うにも、泣くにも、ふざけるにも、なまけるにも。けっきょくみんなあとでバレちゃうんです・・・・。そこにペーソスっていうか、ふと子どものころの情景を思い浮かべることがあるんです。エゴむき出しで、それでいてナイーブで、ときに残酷で、かといって後を引かないみたいな、ある時期だけ形成される「特別な空間」のようなものです。
そことこちらの感覚の幅みたいなものが縮まったり、広がったりしながら、最終的には一致することがなくて、だからお互いに「個」と「個」としてやっていけてるような気がしています。

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