「共」に「生」きる。 in 阿蘇

2007・ 『夢屋だより』9月号から~

2007・秋季号へ向けて
夢屋プラネット代表  ミヤ
今夏、8月27・28・29日の二泊三日の計画で、北九州市戸畑区の地域活動支援センター『アベック』の仲間11名(利用者8名、指導員3名)が阿蘇にやってきました。代表である柴原良子さんは、私が大学時代にボランティアで参加させていただいた「遊びの会(障害児の遊びを考える会)」をつくったお一人で、障害者とかかわるきっかけを与えて下さった恩師でもあります。もちろん腰の重い私を、毎回の話し合いや企画のたびに懲りずに、愛車ステップバンで誘ってくれた友人(彼も今春から、これまで営んできた古本業のノウハウを活用し、就労継続型の作業所を始めました)の存在も欠かせません。
結局、これまで出会ったそう多くない人たちと出会い直しを重ねつつ、同じ循環の中で支え合い生かさせてもらっている気がします。本当に『感謝』としか言いようがありません。
さてそんな中、夢屋でホームページ(ブログ)をつくりちょうど一年になりました。掲載記事もずいぶん増え、喜界島へ帰った友人や大阪の知人などから、「いつも見ています」、「最近○○なことがあったんですねえ」など連絡をもらうと、なるほどどんなに遠距離でも情報をリアルタイムで伝えるには便利なものだと感心させられます。ただ、最近逆に、デジタルの世界は外へ向かっての「消費」や「表出」の面が強く、内面の「蓄積」や「深化」にはなりにくいのでは、と自分を振り返り考えているところです。誰かが見るかもしれない場所では、もちろんメリットもありますが、自身へ向かうベクトルが弱くなる気がするのです。「内省」する時間を大事にしながら、ノートへの手書きなど、これからはアナログの行為の部分も意識的にやっていこうと思っているところです。
最近、阿蘇市内の小学校の校長先生が酒気帯び運転の現行犯で逮捕されました。公教職員の身での不注意は否めませんが、本人を良く知っている地域の方が、先生がたいへん人柄もよく、児童だけでなく、職員や保護者にも慕われていた素晴らしい方であったことを話されていかれました。表面的な情報しか知らない第三者からのネット上でのパッシングなど、家族をも平気で傷つける行き過ぎな批判が多いことを嘆かれ、罪の部分は償うのは当然でも、これまでそばで接し、やってこられた実績の一つ一つを知っている自分たちは、どうすべきかを悩んでおられました。私は「近くの知っている人」の「事実」を「遠くの知らない人」に伝えることは大事ではということを言いました。当然ですが、「事実」は一つではありません。極端に言えば、Aという人(事象)に接した人の数だけ評価や見方もあります。私自身、本人との面識はなく、これから新しい情報を得る側として、それまでの限られた情報でつくられた先入観を洗い流し、再び別のイメージをつくっていく作業がどんなに難しいか、目の前で頭を抱えられている当人との「熱」のギャップとともに実感しました。
ネット社会の中、一見豊富な情報に満ちているようですが、匿名であるがゆえに攻撃的なものが増えているのは確かなようです。個々が情報を吟味し、取捨選択する力を蓄えることが重要であることに気づかされた夏でもありました。

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