「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『缶詰屋』その三

 そんなかれのやめる理由はほかにあった。 
それは単純に体力と言おうか、体調のことだ。
 佐伯は、近ごろ、仕事のとちゅうで眼球がいたく、体がおもくなることがおおくなった。それは予期もせぬときに突然、しかも急激にやってくる、以前に経験したことのない疲労感だった。細胞そのものがいたむというより、弛緩し力がぬけていく感じにもうけとれた。
 かれは、どちらかというと、小学から中学、高校と年を増すごとに体力には自信がましてきたタイプだ。最初の高校を中退し、いくつか仕事をし、大学入学資格検定のことを知って合格した後も、他人いじょうに無茶をやってきた。大学に幸か不幸か合格し、卒業後、今の会社にすんなりついたわけではなく、しばらくあちこちを旅し、故郷にかえるたびに仕事を変わり、いわばフリーターのはしりのようなことをやってきた。そんな佐伯だったが、学生のころからつきあっていたいまの妻と結婚すると、ほとんど同時に、現在の職についた。はやいもので八年になる。
 よくあるき、よくうごき、よくはたらいた。売り上げのトップをしばらくつづけていた時期が入社いらい、五年つづいた。生来の負けずぎらいな性格と、いくつかの仕事をしてきたことがかえって客との話題づくりの面でさいわいした。
 そんなかれに、疲れは、二年ほどまえ最初の徴候があらわれ、今年になってさらにひどくなった。いまでは、神経にまでかんたんにはいりこんできている感さえある。いや、もしかすると神経が病んでいるのかもしれなかった。
 佐伯には、最近、こんな経験があった。
かれは、よくそんな疲れがでだしてから風呂のなかにひとりでいることが多くなった。たまに仕事がはやくおわったときなど、三才と五才になるふたりの子どもをいれるまえに、はやばやと自分だけ風呂にはいり、湯かげんを調節し、お湯をためるのだ。いつのまにかそうやって湯を落とすのといっしょに風呂にはいるようになった。
 滝のような音を耳にしながら、くぼんだ場所にいると、不思議と水音と間段なくしめきられたサッシ戸のせいで外部から遮断された気分になりおちつけた。もしここで、絶叫をあげ死んだとしてもすぐにはわからないのではないか、そんなこともかんがえた。
 最初まったく湯がないとき、蛇口からおちてくるお湯が底に跳ねあがり、かがめた腰のあたりにもどってくる。それが、すこしずつ溜まるにしたがい、音もかわり、かんだかい音から低くくぐもった音になり、膝をまるめた足の踝から脛、膝へ嵩をまし、からだをじょじょにつつんでいく。
 佐伯は、ひとり営業のとちゅうで昼食をおえ郊外へいくこともおおくなった。舗装された道のわきに車をとめ、けもの道をしばらく歩くだけで、じゅうぶん満足できた。ながい傾斜をのぼりきったところで、わき水に冷やされたすずしい風が頬をかすめる。そんなとき、山はときおり風呂場の水とおなじく、轟という音をたて、せまい空間をみたすように杉の木立ちをゆらし、じょじょに唸りをためこみながら、耳を裂く印象をあたえた。
 草を食む牛を見い見い、かれは、いまそんなことをかんがえ、おもいだしていた。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment