「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『缶詰屋』その七

 

 佐伯が初めて工場をたずね三年になる。
 そのとき、坂本は、リムとハブのあいだにスポークをはめこむ仕事を、来る日も来る日もくりかえしていた。かれに車椅子づくりの工程をおしえたのが山田勇次で、その勇次に教えた男は、すでにやめていた。社長のもとでは、もうさきがないとさっさと見きりをつけたそうだ。
 スポークをはめこみながら数時間たつと坂本の指先は腫れあがった。もともと手先の器用さには自信があったが、実際に力をいれねじこんだり、ちいさな金具をひねる作業はかれをまいらせた。ひとつひとつゆるんでいたスポークは、ニップルをねじこむたびに張りがで、生きた動物の骨格のようにしなり、艶まで生まれてくる。『ふりとり』という作業台のうえでくるくるまわすと、あざやかな模様をその数十本のスポークのあいだから風のようにわきたたせてくる。
 佐伯は、来はじめのころ飽きもせず横から見ていた。
 仕事になれるにしたがい坂本は、パイプをベンダーをつかってまげたり、骨格をつくっていく作業をまかせられ、そのうち溶接も手がけるようになった。溶接は、勇次が鉄工所につとめていた関係でくわしく教えてくれた。ふつうの溶接とちがいやや部品がちいさくなったことをのぞくと、あとは要領はおなじだった。ただ、ステンレスのかんじゃく棒をつかったアルゴン溶接は、鉄が自動的にでてくる溶接機をつかうのとくらべ、デリケートなだけ神経をくばったらしい。
 佐伯自身、作業を見ては感心し、溜息をついた。ただの長いパイプと数百、数十のねじやボルトやスポンジ、バンドが、いくつかの工程をたどるうちにたとえ百キロちかい大人が乗ったとしてもびくともしない車椅子にかわってくる。しかもおどろくのは、出荷の数だ。このちいさな工場でも日に平均二台ちょっととして、年間六百ちかくだしている。以前、勇次にきいた話によると、職場の旅行らしきものをかね関西の工場見学にむりやりいかされたとき、日に何百という車椅子が、オートメーション化したシステムのなかでつくられていたそうだ。
 ひとはまちがいなく老いていく。ハンディをもつ人間も生まれている。健常なものは、そのことに無頓着だ。その証拠に、ためしに数十人の人間をつかまえ、車椅子の車輪の数をたずねてみれば、半分以上が、ふたつとこたえるだろう。まえについているキャスターやステップをイメージしていないのだ。
 社長の言った言葉だ。近くの小学校から、工場見学にきたとき、還暦を過ぎても頑強な商事会社の営業からたたきあげた男は、とくとくと自慢気な笑みをうかべ話してきかせる。
坂本は、ふりとりにつけたリムを回転させスポークをはめながら、そんな演説ぶった話を、うわのそらできくらしい。
スポークは一本一本ふりこのような揺れをとり、足さきにニップルというしめのいい靴をはかせるだけで、ますます上体は生きかえってくる。 佐伯は、そんな話をきくにつけ真あたらしい金属片のにおいが鼻さきまで立ちのぼってくる。
 だが、そんなおもいにひたれるのも、佐伯にはほんの一瞬だ。小気味よく回転する車輪も、しだいに重たく、工場全体のしめつける空気に押しつぶされていく。

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