「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『ダスト・イマージュ』/その一

               ダスト・イマージュ
 
蒲団の襟を鷲づかみにし下からはねのけると、里子の白い太腿が見えた。下着は何もつけていない。股のつけねのところが暗く陰を持っている。性毛なのか二本の脚が折重なることで出来る窪みのシルエットは鈍くて赧い。
 ぼくには昨夜のことが、今思い出せない虚ろなものとして躰の内側の肉の襞をゆっくりと嘗めるようたゆとっている。実はそうなっていることを既に知りながらも先送りしようとする茫漠とした意識に抵抗しようとはしていない。酒臭い息が自分の躰の奥から寝ている隙に染み出て来、暫く抜け切ろうとしながらもその数時間かの記憶を前頭で手繰っていくことに曖昧さでほだそうとしているかのようだ。
 「ねえ柚木君、今何時?」
 里子がカーテンから洩れてくる僅かばかりの明りを額の辺りに受け止め、眩しそうに眉間に皺を寄せる。少し膨れた顔つきで眼もとを顰めている。
 「まだ七時前だよ」
 ぼくも、枕元に置いてあった目覚まし時計に眼をやる。確かに針は文字盤の上に重たげに張りつき、七時ちょっと手前を差している。とするとあれから十時間は過ぎていることになる。やはり思い出さなければならないのだろうか。ぼくは、寒さげに蒲団を裸体の丸みのある腰から足首に添って掻き被せ邪険に掛け直した里子を隣に寝かし、気持ちとは裏腹にぼんやりと多少引き延ばすことはできたとしても、またすぐに戻らねばならぬ地点がしぜんくるであろうことぐらいに心の隅に思い、また同じく横になった。神奈川から沖繩の高校へ移り、沖繩から今度はこちらの県にやって来て早いもので半年になる。といってもここは父母の故郷でもあり、母方の祖父母はまだ健在だ。だから沖繩の高校をいよいよ神奈川と同じように、それでも理由は全く同じではなかったのだが退学になるとすぐに父親も母親もそして自分も迷わずにこの地を選んだ。つまりぼくにとっても、家族にとってもここが最後の場所だったというわけだ。最初に沖繩ではなくここを選ばなかったのにはそれなりの理由があった。母親の友人の夫があちらの大学である程度の地位にありその付属の高校に便宜を図ってくれたこともさることながら、なによりもこちらにはまだ親戚がかなり居座っていてその目を憚り配慮してのところが大きい。しかし、そのことも今となっては隠し立てする段階ではなく、頼れるものは頼ってしまおうという、開き直った窮余の一策と言ったところがないわけではなかった。それにぼく自身、あの頃は現実というものを見ておらず観光気分のところが少なからずあった。どうせ新しく高校生活を送るのなら沖繩へ、そんな生温い気持ちが拭うにも拭えぬぼく持ち前の気楽さと同居する形である一部を満たしていたことを今更否定はしない。一年半通った沖繩の私立高校を辞めてから半年、今ぼくは、この県にある大学入学資格検定の専門の予備校に通っていたのだ。
 「柚木って変わっている名ね、それ本名?」
 初めて里子に声を掛けられたのは、そんな言葉が切っかけだった。ぼくと里子は、頂度一週間違いでこの予備校に入って来た。大検の場合、毎年全国一斉に八月初旬に試験が実施されるため、この予備校も形だけは四月と九月になってから進入生の募集は行われている。春は、その年高校新学から炙り出された者や、その時は担任の言うことを聞き、相手が指示したとおり試験を受けてはみたもののいざ合格してみるとどうしても自分の第一志望とは違っているそのことが仇となり妙な自尊心と結び付き、結局しばらく通った後あっさり辞め、大検のシステムを知りこちらを選択してきた者も多い。また、両親の転勤が入学時と頂度重なり他県受験のケースで失敗した例も割合としては少ないわけではなかった。そんなことからも、検定試験が八月とはいってもやはり進入生獲得は、四月から六月にかけてがピークとなる。だが、大検予備校の最も特徴的な点は、一年を通して、むしろ春や秋以外のときにこそ様々な理由や事情を背負った生徒達が各々の表情の内外や、一見しただけでは見落としてしまいそうな陰りのようなものをそれぞれの好みに応じ装った私服や躰のあちこちに滲み込ませやってくることにあるといっていい。ぼくと里子も、予備校側の教師たちから見れば、おそらくそんなごく一般的なありふれた生徒の一人に数え上げられていたに過ぎなかったのだ。
 「今日は、授業に出るの?」
 里子は、冷蔵庫から取り出した爛熟しきったトマトをナイフで二つ切りにしレタスの載った皿に盛った。後は、コーンスープと目玉焼き、それに薄焼きのパンが、今日の朝食らしい。
 「私ね、お父さん死んでから結構まめに作るようになったのよ」
 「ずっとやってたってわけじゃないんだ」
 ぼくは、スープを一口啜りながら感心さは微塵も出さず何気ない様子で言った。
 「そう。だってお父さん私に台所さえ行かせなかったんだから。そんなものお母さんにやらせておけばいいんだって」
 トマトを齧りながらそう答えた里子の口元からは、赧い汁が一筋零れた。
 「ごめん、ティッシュ取ってくれる」
 ぼくは、箱ごと差しだし、相手はそこから二枚つづけて無造作に引き抜いた。その手が思いの他荒れているのにぼくは気づいたが、それについても触れようとはしなかった。
 「お父さん生きてるとき、よくお母さんと喧嘩して、お母さん何度も私に聞いたのよ。里子は、私とお父さんの一体どっちにつくのって。お母さんお金の使い方がとてもいい加減だったから、化粧品なんかも高級なのセットでお父さんに内緒でどんどん買うの。それでも全然反省しなかった。里子はどうせお父さんの方につくんでしょう、そうでしょ。私、この言葉一生忘れない」 
 食事を終え、ぼくと里子は一緒にその家を出た。古くからのたたずまいが石垣の造りなどに名残りとしてある柳の生え揃った川沿いの小道を歩き出し、昨日のことが当然のように少しずつ上澄みのように浮かんでき、後味と罰の悪さとが予期していたより多分にあることをぼくは知り、一瞬溜息つきそうになった。そのことに凭れかかれそうになって、それでもどうにかいつでも身は翻せるだろうというぐらいの気易い気持ちで平静さを保とうと思ったが、そんな自分の心理に思い当たる節があり、ついつい歩を少しばかり先へと早めた。
 ぼくは、肩越しに見える里子の横顔を窺おうとし、それを思いとどまるのに時間はそうかからなかった。里子と初めて言葉を交わしたとき、まさか二か月もせぬうちにこんなにも早く関係を持とうとは予期してもいなかった。遠い予感めいたものはなきにしも、ここで全ては思いがけない方向に進んでしまったと言えば嘘になる。昨日映画を見ようと誘ったのは、何を隠そうぼくの方なのだ。映画は、ホラーの二本立てで、夢と現実が一緒になりいかにもおどろおどろした怪人が現れ暴れ回り人体が宙に浮かんで破裂したり、骨が突き出し青いドロドロした血を流し、細胞がめくれ赤く変色し突然変異して獣に変わったりといった、どちらも最近流行のありふれた内容のものだった。二人はそんな映画を殆ど無言で見ていた。途中、里子がトイレに立ったとき、何か一言、言葉を発したような気もするが、今、ぼくには思い出せない。映画が終わるとそれからは、アーケ-ドを横に近頃新装されたらしい真新しい店の前で夕食を済ませようとぼくの方が先に足を止めた。「柚木君、いつも外食でしょう。よかったら私んちで食べない。あんまりたいしたものはつくれないけど御馳走するわ」今度はそんなぼくを里子が制することとなり、彼女の家に誘われるままに市電に乗り足を向けたのだ。いつも一人で食事をしているからつまらないと、それこそ所在無げに言う里子は帰りがてらコンビニで買った材料を小まめに使い、手際よく馴れた手つきで料理をつくってくれた。去年のクリスマスに買ってからそのままにしてあるというワインも、ぼくの手によって早いペースで、その日見た映画をこっぴどく批判しながら、一緒にぐいぐいと乾き切った胃にべとつく感覚もしばらく忘れ流し込まれた。
 里子と言葉を交わしながらぼくは、一つだけどうしても気になるものがあった。それは、彼女のうっすらと瞼にアイシャドーを当てた眼だった。肝臓と腎臓、それに心臓という三つの臓器を悪くし薬に太らせされた三年前の様子が唯一うかがえる、父親譲りの一重で切れ長の眼が、どうしてもぼくにはなにか息詰まるものとして感じ取られ、そこだけが別の彼女ではないかと妙に思案めかされた。ほかの者の意志が網膜の奥から二人の距離を測り、陰気でそれでいて刺すような光を放ち見詰めている、そんな気配が払い除けられず、それを振りほどきたいと何度もグラスを口に運びながらついに、ぼくは里子を抱いたのだった。里子は抵抗しなかった。服を脱がせるときも、胸元にぼくが、顔をうずめるときも。彼女は、不感症ではないかと思えるほど、溜め息一つ漏らさなかった。それでも彼女は、ゆっくりとぼくのペースに合わせるかのようにズボンのベルトを緩め、その隙間から腕を忍び込ませると、柔らかく指先で包んでくれた。お互いに裸になり、ぼくは仰向けになった里子の上から、その暖かみを確かめるように入っていった。
 同級生の喜代美のところへ寄ってから行くという里子と別れた後ぼくは、一度、自分の下宿先のアパートへ帰り、今日ある授業を確かめ出掛けてみようかとも考えたが、予備校が買わせたどれもこれも脱色したような鈍く照り返す表紙のテキストを見ているうちにきっと腹が立ってきてどうしようもなくなるだろうことを予め思い、それでも投げやることだけは今の状態では、絶対にぼくはしないだろうと自分の性格と絡め、しばらくぼんやりしたまま、そこから一番近くにある、アパートへ行くための市電の駅の途中にあるこの町では比較的ましな透明度を持った川の支流に縦に埋められている石堤ぞいを、重い踵を前に動かし煙草を吸っていた。苛立ちは、かなり以前とくらべると沸き上がってくる量に開きがあるかに思えた。それでも躰のどこかに節穴に似たものが重なり合い熱をもったまま逃げ切れず気孔を自らの膜で覆い、そこに針を刺したようなとば口を探し当て蒸気のように乱らに揺らごうとしているぼくの肉体が、やはりあった。そうやって、やがて身をすくわれそうになるのを無意識に防ごうとしているぼくの躰にとって、慌てぐらつくことよりもまず先に、煙を口から軽く吐き出し、内と外とのバランスを保つことに持したことは賢明とでもいえる方法だったろう。振り返るとまたそこに自分がいるという、当然の結末が招いた如るべき状態が今ここにあると言えば言えないこともなかった。舞い戻るということは一体どういうことなのか、最近のぼくは、そんなことばかりを考えている。ぼくは、今年で二十一になる。最初の学校に一年半、担任の教師と暴力沙汰を起こし居るにいれずそこを止め、しばらく何もせずぶらぶらした後沖繩へ行き、そこでまた一年と約五か月余りを過ごした。合わせて三年近く経た筈なのに、ぼくはまだ卒業資格規定単位数の三分の一にも満たっていない。出席数が足りないのだ。沖繩から帰った後は、呆れ返る両親を前にまたよせばいいのにバイク熱を吹かし、昔の仲間を呼び集めたがもう既に誰も以前のような関係でも無くなり、一人逸るぼくは、そのうち車と正面衝突するという大きな事故に遭ってしまった。筋肉が骨に巻き付き坐礁し、痛々しくも哀れな入院生活を一年間送らねばならぬ羽目となったのだ。その後退院すると万を持しこのKという地方の街へやってきたというわけだ。一度離れたレールにまた再び戻る作業が開始されようとしている。自分の意志で離れた筈のぼくが、それも今度は再び自分の意志でそのレールに足先を乗せ翻えそおうとしている。
 「わたし、二十になったらなんでもやめようと思っているの。タバコもお酒も睡眠薬も。安定剤だってきっとやめてみせるわ。そして二十からはしっかりとやっていきたいの。自分がどんな道を歩いているのかを自分でちゃんと確かめながら生きていきたいの。だってそうでもしなければ、死んだお父さんに申し訳立たないもの」
 里子が昨日、毛布の中で語っていたうわ言めいた言葉を今ぼくは、遠くから響く波の蟠りのようなものとして鼓膜にとらえていた。父親が死んだ後、里子はあらためて母親に幻滅したと言う。葬式の準備から通夜におとずれる弔問客の相手までなにもかも中心に動いたのは、そのとき中学三年だった彼女自身だった。母親は奥の部屋から一歩も出ようとせず泣いているのか生きているのかそれさえも判別がつかぬほど萎れ、何かことを運ぼうという素振り一つ見せなかったそうだ。妹はまだ小学五年生で手伝いらしい手伝いができる歳ではなかった。里子は葬儀のとき弔問に訪れた客の前に姿を現そうとしない母親を憎々しげに、心底腑甲斐無い存在だとそのとき以来思いつづけ、そしてある事件がその後引き金となりその憎しみは頂点に達し、今の家族の状況をつくりあげることとなった。母親は十九で里子を生んでいたため、父親が亡くなったとき三十四を迎えたばかりだった。
 「そりゃー、お母さんの気持ちだってわかるわよ。それまでほんとうにお父さんお父さんで、外に働きに行くこともなくて、ずっと家の中にいた人だったから。でもわたし、あのときのお母さんをゆるせない。絶対に許せない。わたしほんとうに親戚の中でたった一人だったのよ。叔父さんも伯母さんもみんな親身になって心配してくれる人も、それに悲しそうにしている人なんて一人もいなかった。なんで大人はあんなに平気でいられるの。わたし最後にお棺に入れられる前、お父さんの躰を何回も何回もさ擦って言ったわ。起きてお父さん、ねえ起きてお父さんって」

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