「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『ダスト・イマージュ』/その四

 少女の名前は井芹京子といい、中学を出たばかりの十五だった。
 一人で授業を待っていると、のっそりとした若い男が覗くので、きっとここの教師だと思い、それなりに気を許さず構えの態度をとった。しばらくしてあまりの相手の反応のなさに了解できないものを感じ、挨拶されたことの反動でついつっけんどんに尋ねてしまった、ということらしい。ぼくも、十五のあどけなさの中にも、もしかするとここへやってくる生徒特有のものなのかも知れない、肯んぜなさと稚なさと、それに逸れてきたことへの許しがたい抵抗という、言うなれば自己愛の偏りめいたものを持っているように思えたのも確かだった。
 この予備校では、もちろん授業に来ない生徒より来る生徒の方が珍しい。来る生徒は限られているが、その人数と照らし合わされた枠と仕組みを持つことでその者たち同志引き付けられ、そうかと思えばただちに離散しその枠内を回転するように順序だち秩序ではなく、それでいて秩序であるしかないものとして繋がり合う。また、それを欲するのだ。あるいは、これを履行する自分らを認めない。だが、現実はこうしてある以上なく、仲間の形成を畏れをもって待ちつづけ、共通という形さえない標しを自分らにもたらす。ぼくは、一瞬他の生徒と自分との関係を思った。篠見の、あの粗い網目の粘りの線に絡めとられたときのことを想像した。ぼくが講師を呼びに事務室へ行ったときは、学生のアルバイトは備え付けの新聞を眺めているところだった。
 「生徒来てますよ」
 相手は、「あっ、そう」と軽く返事をし教科書と出席簿を手に抱え出ていった。
 ぼくが、もといた部屋に腰掛けしばらくしてから、里子が喜代美を連れやってきた。喜代美は、今はアルバイト先で知り合った若い男と付き合い、彼女自身は、夜パブに勤めかなり躰に無理を利かせているようだった。事実、ぼくが初めて会ったとき、彼女は、実際の歳より、十は上に見えた。眼元といわず顔の表面そのものが落ち込んでいて、面窶れどころか、たった今の今まで重い病気に罹り辛うじて退院してきたのではないかと思われるほど疲れ方が全身から漂っていた。それが和んだものではなく、見る者に突き刺さってくるようだった。内臓の裏側から鈍く掠れた滞った咳を、喜代美は何度も繰り返していた。 「おそかったじゃないか」ぼくは里子が見る限り、いかにも待ちそびれたとばかりの口調だった。
 「篠見先生は?」
 「出ていったよ」
 里子は喜代美の顔にちらりと視線を送ったが、彼女の方も喜代美に負けないくらいぐったりとしたように椅子に座り込み、既にそちらに顔を向けてはいなかった。「ほんと、あの先生不良なんだから」呆れた節回しで喜代美の顔を見るだけ見、すかさずぼくに視線を移した。里子に言われてみれば、確かに勤務中、生徒を連れだってパチンコへ行く篠見も篠見であることに違いはなかった。篠見は何かと称してはよく外へ出ていった。授業の出席が少なければ生徒を呼びにいくことは当たり前で、近くに下宿している生徒はほとんど全てがその対象になっているのは確かだった。しかし、最近、そんな篠見の様子も変わってきていた。
 「篠見先生、結婚するんだろ」
 ぼくは、なんとなく噂で訊いていたことをたずねた。
 「でも相手のお母さんが絶対駄目だって、猛烈に反対してるそうよ。娘がこの人と結婚したら私は自殺するって、家族とか親戚に言い触らしてるって私聞いたけど」
 喜代美は煙草を取り出した。
 ぼくは、ここに来てまだ二か月しかたっていないというのに、いつのまにかこんなことまで話を聞き及んでいる里子が、どのような配線を張り巡らし他の生徒との間に交換を掴んでいるのだろうかと思った。その一つ一つの系路はぼくにとっても、また里子にとっても案外、それがもし管のような形をしているとして空洞部を外の索を切り開き見たとき、これまで触ったこともないような微粒の先細りする針と見紛う先端を持った線が走り、無数の流れにとられながらも、それでもわりとぼくと彼女は心地良くお互い何も知らぬ気にその先の行き手を見送り楽しんでいる、そういった耳にとどかぬかんまびすさを形に戻したような、往ったらそのまま消え入ってしまうことはない、少しでも形あるものとして残るものを包み込んでいる、そんな存在の仕方をしているという気がしないではなかった。 
 「山田さんは、今日は授業だろう」
 「そうよ。だけど、わたしが授業なんか出るわけないじゃない」
 「まあ、そうだろうけど」
 三人は、話していることにも退屈したふうに、十分も過ぎると、いつもこのようなときは、なるべくとるようにしているビルの隣にある喫茶店へ引き寄せられるようにして、出掛けて行った。
 井芹京子と外出から帰ってきていた篠見たち四人と頂度鉢合わせとなる恰好が、ぼくたちがその部屋へ戻ってきたときには出来上がっていた。
 「私の高校のときの英語の先生が自分は、特攻隊の生き残りだとか言ってね。叱るときは興奮して英語でがんがん喋るの。ユー アーア チーバー だって。チーバーってわかる? 雛鳥ってこと、つまり青二才ってことよ」
 喜代美が珍しく座につきしばらくすると、つい半年前まで自分がその中の生徒の一人として入っていた私立の高校の話を熱心に始めた。
 「その先生、物凄いアル中でね。毎日毎日お酒の臭いがぷんぷんさせて。特攻隊の三期生とかで、お前たちと同じ年のときはもう、お国のために志願してたって何回も言ってたわ。戦争終わって、東京行って、学校復学しても授業なんかないもんだから、それからアメリカ軍の基地でアルバイトしてたなんて自慢してたけど。そこで英語の通訳してたって。とにかく親方星条旗なんだから、なにやっても大丈夫だって。多摩川とか富士山とかにもジープでばんばん登ったり、深いところまでわざと渡って車壊して遊んでたって言ってたわよね。それからアメリカン・スクールでも働いてたってたいそうもったいぶった調子で喋ってた。そこを八年ぐらいして辞めて、建設の請負会社自分で興して、景気に乗って繁盛して、そのうちオイル・ショックで潰れて、仕方なく田舎引き返してきて、それでうちの校長と同級生のよしみとかで英語の非常勤講師でようやく雇ってもらって来てたんだけど。結局、仕事の前にお酒飲んで来るのが一度や二度じゃないもんだから、飽きれた校長がとうとう堪え切れて注意して、本人もカッとなって大声で校長や職員の先生たちに向かって、 アー ユー ジャパニーズって。『お前らそれでも日本人か』って叫んでさっさと辞めてったわ」
 「でもそれとお前が学校辞めたのと、どう関係があるんだ」
 篠見特有の間髪を入れぬ尋ね方に喜代美も、当時を思い出したのかやや興奮気味に、
 「それが、大有りよ。だってわたしその一部始終の目撃者だったんだから。たまたまそのとき職員室に、まあそれも前から目つけられてたんだけど喫煙のことで朝から呼び出しくってて、生活指導から注意受けてたのよ。偶然、そこにいたもんだから、びっくりしちゃって。で、その生活指導の先生、私が職員室出ていくときなんて言ったと思う? まあ、ありきたりのことなんだろうけど、口封じよ。いいか、このことは絶対他の生徒に言うんじゃないぞって」「それでも、その英語の先生の噂は広まっていった!」
 久本が、推理を当てる回答者のように声を上げた。喜代美も同調者を得たふうに、
 「そう、だから私が学校中に言い触らしてるってことになって。PTAの偉い人も出てきて、校長先生に注意したそうなのよ。こんなことでは困りますって。私は私でもうとにかく、馬鹿らしくなっちゃって。どうせ勉強する気もなかったし、やーめたって感じね」
 井芹京子は、黙ってその話を聞いているようだった。おおよそこの部屋に来て、ヤニ臭い壁に囲まれながら高校を辞めた当時のことを誰かが振り返りそれに対するのには、特に初めて来た者にとっては二通りの反応が用意されているのかもしれない。一つは、理由はどうであれ所詮は同じようなものが集まった場所なのだと観念し、それがそれなりに落ち着ける場所なのだと考えた上で、必要以上に求めることもしなければ、またあまり簡単に寄って掛かろうともせず相手の出方を窺いながらそれなりに判断し顔を出し、自分の抽き出するものと対等に割りの合うものだけを得ようとする態度をとるか、もう一つは、早々と見切りを付けまったく姿を見せなくなるかのどちらかだ。だが多くはそのどちらにも片寄れず、怒りのようなものと同居する形で、しばらくは踏ん切りのつかぬ状態が続くことも多い。
 「大体が、ここの社長は、俺たちが入るときはニコニコしていろんないいことばかり言ってるのに、実際入ってみるとかなり話が違うんだよな」
 久本が、さして大袈裟を装わず回りの生徒を気にすることなく言った。
 「どう違うんだよ」
 佐伯が絡む。
 「ベテランチューターが、学習に関しては相談にのるなんてパンフレットには書いてあるのに、いるのは篠見先生とアルバイトの講師とか退職した年寄りの先生ばっかりだろう。学生食堂だって、いづれ、一階に造るつもりだし、君のような下宿生には安い料金で食べてもらえるように努力するつもりだよなんて、今から思えば信じられないこと社長言ってたんだぜ」「しかし、久本、お前相談なんか受けようと思ってたわけじゃないだろうが」篠見のその一言に、
 「まあ、そうだけど……」相手は出鼻を挫かれる。
 「でも篠見先生だって、社長は、大狸だっていったでしょう」
 ぼくが、思わず横槍を入れた。
 「そうそう、言ってた。ブライダル・ローン組んでくれない、約束と違うって。あれほんと」
 芳弘も加わった。
 「お前らなあ、そんな話、一体どこから仕入れてきたんだ」
 「仕入れたんじゃないですよ。先生がでかい声で話してのが耳に勝手に入ってきたんですよ」
 ぼくも負けてはいられず、ついふざけ半分ムキになる。
 最近の篠見は、確かにぼくたちから見ても多少そう言ったことが、なかなか解決できぬ悩みとして映っているようだった。以前までのどこか開き直った中に適度に押してくる全体の動きが、最近、少しだけだが弱腰になってきているところがある。それは、躰と言わず、篠見自身の顔色の奥にある動揺をもたらす根の一部や、肩の線の僅かな歪んだ崩れに微妙に見えては隠れ、外に時折り表れ出てくるようだ。こうやって毎日が過ぎていっているというわけか。篠見はこの部屋で生徒達を迎え入れ、夜は定時制の生徒たちがまた何人かやってくる。そこでもまた、生徒たちとの話が交わされ、篠見は一人、彼のもつリズムをときには壊し破られながら生徒自身とのほとんど一方的と言って良い話の内容を聞き取り、いくらかの理解を示す返答と相手への決してマイナスにはならない筈の加減を考えた叱咤をほどほどに交錯させながら、自分だけが徐々にすこしづつ衰えの道をたどっていっているようだ。
 篠見自身まだ歳は三十にもなっていないのだが、彼が今、ぼくや生徒からの吐き出された言葉を受け入れる態度をとればとるほど、どこかで自信が冷え、なくなるまでもなくとも、自分自身の生活との軋みの僅かな隙間から思ってもいない方角へとかしぎ、それでもそのことを自分でもすべてわからぬながらも、この部屋の流れと言うかこの予備校の雰囲気自体を何とか持続していってるかに思えてくるのだ。

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