「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『エデュケイショナル・スノウ』その五

               
              第四の報告
             
 閣下、ここである小学校の、しかも臨時採用の男のことについてお話します。その男の名前をここでは木村としておきます。なぜ、このような話をするかと申しますと、全大的な御報告も必要ですが、時として一つの例を微細に見ていくことの方がこれから閣下がご判断される上で多くの示唆をふくむ結果になるのではと思われるからです。
 木村が最初に赴任した小学校は、全校生徒五百六十、クラス数十八、各学年三クラスづつのこの地では中規模学校に属し、門から入ったすぐ右手に今は誰も使わなくなった古ぼけたモルタル塗りの用務員室がひっそりと立ち、かつての宿直室の面影を残していたそうです。木村が受け持つことになったクラスは、四年生でした。そのクラスはそれまでやや年配の女性教師が担任していたのですが、今度、以前から医者に診断されていた内臓の筋腫を本格的に治療することになり、そのための摘出手術を行うのに必要な入院と自宅でのしばしの療養期間が委員会との間の手続きのもとに承諾されたそうです。期間は約二カ月という短いものでした。つまり、木村は二か月間、その四年生のクラスを担任することになったわけです。それは、三学期が始まってすぐの時期に当たっていて、手術するのを引き延しわざわざその時を選んだのは、ベテランなりに色々考えてのことなのか、それともこれ以上延ばすに延ばせぬやむをえない事情があったのか、その辺りの内実は詳しくはだれにもわかっておりません。
 木村には子どもがおり、そんな臨採の彼を、周囲の教師たちは物珍しがりました。二か月という短期間の臨時教員に二十六才の子もちの男がのこのこやって来るのですから、どこか風変わりに映っても仕方のないことだったでしょう。とくに、その年採用されたばかりの新採の何人かは木村を不思議な眼で見ていたとのことです。と言いますのも、その時、季節は既に新年を迎え、益々風も冷たさを増しいよいよ冬一色になろうとしていたわけですが、来年度採用に向けて気の早い者たちは、その準備に取りかかり、その行為を決して早過ぎると言って片づけてしまうことはできない時期にさしかかっていたからです。一人の若い男の教師が、木村のことを今年は試験は大丈夫なのか心配してくれました。それは木村が子持ちでもあり、妻帯者であったことが原因していたのかも知れません。木村は、そんなときはきまって二つ返事で、今のところ今年は試験を受ける気は全くない旨を告げていたそうです。その教師は面食らったように驚き木村に何か魂胆か深い主義か考えでもあるのだろうという訝かる眼つきで彼を見つめていましたが、私どもが木村の性格から分析しますに、彼には大してはっきりとした思いはなかったととる方が妥当かもしれません。ただ、敢えて言えば、紙切れやわずかばかりの実技で教師に選び取られたり、落とされたりすることに彼自身納得ができないこともあったでしょうし、そんなことを繰り返すことにそろそろ嫌気が差していた、といったことも充分考えられます。と言いますのも木村はよく、その不満を妻に漏らしていたそうなのです。おそらく、その時本気で教員になりたかったのか、と彼自身聞かれれば、それさえも疑わしかったのではないしょうか。ただ木村はそんなことより、クラスの子どもたちとの新しい生活の方に期待を抱いていたらしいことはこちらにもはっきりと確認されています。彼には他の教員とは違い残された時間はわずか二か月しかなかったのですから。
 閣下、ところで、木村が教員になって初めてやったまともな仕事は、児童たちと一緒に鶴を折ることでした。鶴とはいっても、千羽鶴のことで手術をした女性教師へのささやかなお見舞いの品のつもりでした。それと一緒に手づくりの色紙をつくり、寄書きに加えて手紙や作文も書きました。鶴は学校の空いた時間や特活だけでは足りず、家でも子どもたちや保護者につくって来てもらっていたそうです。黒板に「1000」という数字を書き込み、それを毎日少しづつ減らしていくことに子どもたちは夢中になりました。木村も子どもたちと一緒にうまく折れない子に教えてやったり、教え合ったりしていました。幸い、折り紙クラブの子が何人かいてその子たちが中心となってやってくれたそうです。
 そんな中で木村は、まず学級づくりの取組として班替えをやりました。初めに、班替えの件を子どもたちに彼から呼びかけ、全員の賛成を得たのち、二学期の学級委員を立たせ、これまでどういう方法で決めていたのかを発言してもらいました。そしてしばらく子どもたち自身で話し合った後、くじ引きということに決定したのです。その際、二学期の場合、一度くじを引いた後、担任が指示しいろいろ何人か特定の者を入れ替え組み替えていたことを木村は他の教師から聞き、今ある班と席順が女性教師の意図あってのことであることを知ったそうです。そこで彼は、子どもたちに再び問いなおしましたが、やはり替えたいという意志の者が全員であったため思いきって実行にうつしました。このとき、もちろん、木村は子どもたちに意見を聞きながら、隠れていた少数者や、見せかけだけの賛成者を見抜こうとはせず、葬っていたことを否定はできません。子どもたちの間には、大人たちと同様、何らかの力関係が在ることは眼に見えていましたし、発言権の強い者、弱い者、自分の存在を何とか認めてもらおうとする者、あるいは既にそれを断念している者と、少ない時間ではあってもその様子から判断することはそう困難なことではなかったのですから。しかし、木村はやってみたかったそうなのです。女性教師がつくり上げたものが今在る形であるならば、それらを壊し、子どもたちの望むとおりにやってみて子どもら自らがそこから露になった自分らの姿を見、彼ら自身一度そこから木村本人や女性教師がどこに立っていたのかを見つめはじめる、そんな一瞬があるかもしれぬ……彼は、そんなことをやってみたかったと、後ほど発表する学内でのレポートにもハッキリと書いています。そのとき、木村自身、女性教師とともに子どもたちにとって、もしかすると必要な存在として再び認められてくるのかも知れない……彼は教師としての実践の狙いを密かにそう抱いていたと、決意を込めた文字でレポートの末尾をしめくくっているほどなのです。
 鶴は様々な色で折られ黒板の上に掛けられていきました。一羽一羽がどこか違い、表情が異なって見えたことは言うまでもありません。この地域では、折り紙は折る人柄がよくあらわれるといわれています。レポートによると木村は、子どもたちが持って来る鶴と子どもらを見くらベ、どんなときにどんな気持ちで折ったのかを想像し楽しんだり、複雑な気持ちになったりしたそうです。千羽の鶴には千の顔があることになるわけです。子どもら一人一人に、家一建一建に二十も三十も顔があるということは、何か末広がりに深まっていく不安のようなものが木村の内面を走り、彼を小波のように戸惑わせたことは言うまでもありません。鶴は、班替えもすみ、クラスの役員も決め終えた頃、完成しました。木村は、新しい学級委員二人を連れ女性教師の家へ、寄せ書きや手紙と一緒にそれらを車に積み込み持っていったのです。                          

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