「共」に「生」きる。 in 阿蘇

映画『永遠と一日』を見て。

NHK・BSで深夜、テオ・アンゲロプロスの作品が三回にわたってあっていました。『霧の中の風景』(1988)『永遠と一日』(1998)『エレニの旅』(2003)です。
ご存じのように彼の初期代表作と言えば、『旅芸人の記録』(1975)ということになるでしょう。古代神話から現代に至るギリシャの歴史を、神話の人物関係を下敷きにした旅芸人一座の姿を通して描いた壮大な物語です。
しかし、私がこの監督を知ったのは、15年ほど前になると思いますが、たまたまテレビで見た『霧の中の風景』ででした。
ドイツにいると言われている「父」を探すため、幼い姉弟が蒸気とも霧とも、果ては人工的なガスともつかぬプラット・ホームから汽車に乗るシーンで始まります。そこからの一コマ一コマのシーンがきわめて陰影深く、「ヨーロッパ」と簡単に概括できない、それぞれの国家がそれこそ深い霧の中にあるおぼろげな「国境」を隔て歩んできた一筋縄ではいかぬいくつにも折り重なった歴史や社会思想、哲学といったものの鬩ぎ合いを「野外劇」を思わせる大胆な演出によって盛り込んでいることに、映画の新たな可能性を垣間見せられた気がして心打たれたのを覚えています。
『永遠と一日』は作家(詩や小説を書いてきている)の主人公アレクサンドロス(『ベルリン天使の歌』の天使や『ヒトラー~最期の12日間~』のヒトラーの役をしているブルーノ・ガンツが演じています)が、不治の病(病名は映画の中では明かされていません)を自覚し、明日には入院(「社会性」との遮断、すなわちこれを「死」と換喩しているようです)することになっていて、そんな彼の最後の一日が丹念に描かれていきます。
どうも主人公は、生前は気まぐれな旅ばかりしていたようで夫の不在中、失望の中、それでも必死にけなげに生きたことを思わせる3年前に亡くなった妻アンナとの記憶の場面や、車の窓ふきをして生計を立て、あわや養子縁組目当ての売買の餌食にされようとするアルバニア難民の少年とのかかわりを通し、時間、記憶、存在、この三つの要素が絡まりながら展開していくことがこの映画のミソです。最後に主人公が記憶の中で亡妻に明日の時間の長さはどれくらいか訪ね、永遠と一日だと妻は答えます。
印象的だったシーンはいくつかあります。どこへ向かうのか定かでない循環バスに少年を誘ったときやってくる、やや時代のずれた他の乗客たち。赤旗を持ち深くうなだれまま身動きしない、たった今までデモの渦中にいたことを思わせるコミュニストの青年、年配の教授との恋の駆け引きを批判(嫉妬)する青年と相手の冷めきった女性、バイオリン、チェロ、フルートを手に持ち演奏を始める音楽学生、そして往年のギリシャ詩人ソロモス。おお!!まさしくこれは宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』ではなかろうか。そんなことも考えてしまいました。
バスから降り、少年と別れた主人公は、どこへ行こうか迷いに迷い、車を交差点に止めたまま、周囲の車の渋滞も気にすることなく明け方を迎えます。
私はこのシーンにこそ、決定的な仕掛けが仕組まれている、そう感じました。とにかく長いのです。で、朝方彼が向かったのは、やがて取り壊されることになっている妻とわずかな蜜月を過ごした海辺の豪邸でした。
時間はふたたび飛びます。
そこで前述した最後に亡妻に向って訪ねるシーンがあらわれるのです。
「明日の長さは?」
「永遠と一日」
なるほど。ここでこの映画の構造がある程度読み取れた。そう思いました。
もちろん監督は、見る側へそれぞれ自由に解釈ができるよう余地は残してあります。
それでも私なりにあえて言わせていただけば、あの長い信号機の前での「停止」によって、主人公のたどってきたすべての記憶、物語、妻、娘、少年、それらは幻想(妄想)であったとも充分とれるようつくられています。すなわち私たちが主人公とともに体感したものは、過去、現在、未来の時間の連続性の中、存在が立ちあらわれる「永続」的なものではなく、その時間そのものを越えた別世界の基軸である「永遠」そのものであるということなのです。ただ「永遠」なるものは、「時間」軸のなかには存在しませんから「あった」(過去形)も「あるであろう」(未来形)もなく、ただそこに「ある」しかないのです。
最後にまたまた長く映しだ去られる残酷なまでのアレクサンドロスの髪の薄くなった後頭部のクローズ・アップ。そこに「永遠」の中、ただそこに存在するしかない現在としての実存の姿、すなわち「一日」が浮かびあがります。
「永遠」と「一日」、これはけっして対比ではなく、私たちが日々生きる実態そのものなのだと、監督アングロプロスは言っているようにも思えました。

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