「共」に「生」きる。 in 阿蘇

部落解放第23回熊本県研究集会へ代表宮本が報告者として行ってきました。その6

発表原稿は以下のとおりです。

~ともに生き、行動する中から~ 
       
阿蘇市地域活動支援センター「夢屋」 宮本誠一
1、一人の青年と始めた作業所づくり
1995年、4月、自閉症の青年(当時19歳)との出会いをきっかけに夢屋を起工、開所して15年目になります。教員生活に5年でピリオドを打ち、阿蘇郡初めての小規模作業所を立ち上げた歴史は、そのまま行政や地域住民を巻き込んだ「意識変革」の取り組み(施設から地域へ)であり、当事者(障がい者)の自己変革(親任せから自己決定へ)を促す日々(実践)の積み重ねだったと思います。
何より頭を悩ましたのは、運営資金をいかに捻出していくかということ(当時の県の単独事業である心身障害者通所援護事業に基づく補助金は、立ち上げて4年目にして年間20万<一の宮町10万、県10万>)。また、地域住民や行政、教育関係者に、障がい者の生きる選択の場としての「地域」の重要性を問いつつ、どうアプローチしていくか。そして、夢屋のメンバーたちに主体性と生き甲斐をもった活動を持続してもらうためにどう支援していくべきか。この3点が常に大きな課題としてありました。
2、さまざまな現場で事実を率直に語り、説明する中から理解者を増やす。(資料①参照)
(1)資金面について
立ち上げ資金は支援者から融資してもらいましたが、その返済と日々の運営費を作り出すことは急務でした。行政支援が進まない中、民間助成に数多く応募しました。取り組みの先見性と必要性もさることながら、日々の運営の様子(障がい者の実態、スタッフの経済事情等)を具体的に説明し、細かな資料を提出することで理解を求め、助成をしていただいたことは大きな励みになりました。また、パンづくりと販売は、メンバーの活動面でも、運営費をつくりだす上でも大きな役割を担ってくれました。作業工程も多く、配達、販売まで入れれば、重度の障がいがあってもある程度、参加できます。また売上げ面も食品は比較的安定しており、労働意欲と意識を育てる上で有効でした。
(2)地域住民や行政、また教育関係者へのアプローチについて
いろんな機会をのがさず、啓発活動をしていこう。それが夢屋の合言葉でした。例えば、パン販売がまだ軌道にのっていない開所時、宅急便の仕事をしましたが、そのときもメンバーを乗せいっしょに配達し、地域の家々を一軒づつ回っていきました。スタッフに教員がいたことも大きく、転任先で情宣活動をしてもらいパン販売だけでなく、交流学習の場を設けてもらったことも大きかったと思います。集会や会合には常に当事者に参加してもらい、作業所に来始めたきっかけや近況を話してもらいました。機関紙には早くから着手し、『夢屋だより』は開所の翌年から季刊発行(毎回200部)をはじめ、現在では50号を数えます。メンバーやスタッフ紹介、活動の風景などを時節の福祉に関するニュースなどを交え伝えてきました。現在はメンバー自らが原稿を書き、編集作業も行えるまでに力がついてきています。
(3) 主体性と生き甲斐をもった活動の持続について~実践は日々の生活の中にあり~
夢屋が特に意識的に継続してきたものが2つあります。1つは昼食づくりです。食事は主体性を育てる上でも、またメンバー同士のつながりをつくる上でも重要な作業です。自らの「食」と結びついた行為は、「生きる」ことと直結しており、他人任せでは成り立たないものです。メニューを考える、材料をそろえる(買物)、調理配膳、食し、片付ける行為の中から、これまで「かえって手間暇がかかる(遅い)」「危ない」の名のもと封印させられてきた自活の喜びや充実感を取り戻し、感じ取れる瞬間をいくつも見てきました。現在は、農園で白菜、ブロッコリー、大根を育てており、可愛い芽が出た時は歓喜し合い、水かけ、草取りなども自分たちから進んでやっています。
 もう1つは、「つづる」こと(語ること)です。開所時は、週に一度、「語る日」をつくり、自分の生い立ちや趣味、夢、悩みなどを話してもらっていました。それが後に「つづる」ことへとつながり、7年前からノートに日誌を書き始め、様々な研究会や小中学校との交流で本人自らがが発表したりしています。(資料②参照)
 
3、差別の現実から学び、一人ひとりが「自分らしさ」に気づき(肯定し)、「自分らしく」生きることを目指して。
「夢屋」が壁にぶつかってきたとき、常に確認してきたことは、当事者(障がい者)とともに生き、考え、行動しているかということでした。これはあらゆる社会問題や差別問題を捉える上で欠かすことのできない視点であり、ときとして家族にも突き付けられる課題ではないでしょうか。そんな中、昨年、熊本県ハートウィーク主催「心の輪を広げる体験作文」でメンバーの中島地利世さんが優秀賞をいただきました。(資料③参照)そこには聴覚障がい者として生きてきたこれまでの困難をむしろプラスととり、「自分らしさ」としてとらえ直していく過程が書かれています。しかしそれ以上に大きかったのは、その文章が広報『あそ』に掲載されたことと、その文を読まれた市民の皆さんの反応でした。彼女は、後のつづりでこう書きます。

【夢屋】の事を知って下さっている方や、知らない人達からも、「広報を見たよ」とたくさんのお祝いの言葉をかけて頂いて「せっかく同じ地域に住んでいるんだからね、もったいないからどんどん話して…もっと親しくなりましょうよ」「何かあったら、いつでも気軽に遊びにおいでよ」など、とても嬉しい事を言って下さる方もいました。他にも、あるコンビニへ買い物に行った時、一人の店員さんが「広報に載っていましたね!おめでとうございます」と言って下さって…それ以来レジに行く度に、ちゃんと商品を指差して「こちら、温めますか?」とか「お箸は、何本つけましょうか?」と指で数を示して…ゆっくり大きめの声で私に聞こえているか確認しながら対応して貰えるようになり、今まではそんな風にレジで言われていた事が聞きづらい思いをしていたので、とてもありがたく助かっています。(中略)作文をキッカケに多くの人とつながり「中島地利世」という存在を知って貰えた事は貴重な体験だと思っています。

また、他のメンバーも様々な現実と向き合いながら、「夢屋」の仲間との絆を深め、日々の活動を行っています。佐藤清子さんは、開所以来のメンバーです。うつ病を発症しながらも、初代セールスレディーとして活躍し、自転車で販路を広げてこられました。現在はお連れ合いの運転により、二人三脚で常連客にこまめに配達され、活動後は、散歩で体調を整える毎日です。地道な努力の積み重ねの重要さを生き方そのもので示してくれています。高倉深雪さんは、養護学校卒業後、近所の漬物屋さんや縫製工場、野菜集荷場、授産施設など、様々な職場を経て、8年間在宅していましたが、市役所から「夢屋」を紹介され7年目になります。ケースのショートニング塗りや卵割り、新しく入ったメンバーのお世話をしてくれます。入所施設をやめ、南阿蘇から電車で通う井上拓郎さんは天板洗いが得意です。週に一度、笑顔で包み込んでくれる竹下舞さんはお客様へ渡すカードの色塗りを。高齢のお母さんとの二人暮らしの岩下義生さんは、町の情報をあれこれとどけてくれます。そしてこの春、中学を卒業したばかりの小嶋康揮さんがやってきました。小、中学校の交流学習で親交を深め、得意の声やポーズとともに、クッキー生地を手の甲で広げてくれます。
4.仲間とのつながりこそが熱や光。
私事ですが、昨年5月、「夢屋」移転後、以前から痛めていた腰が悪化、ついに9月、職場で倒れ、救急車で移送、二週間の入院を余儀なくされました。退院後、今年1月、再び腰を痛め、今度は「夢屋」の二階で安静の状態がしばらくつづきました。その間、ポータブルトイレだったのですが、メンバーたちがお世話をしてくれました。満足に下着も自分で変えられない私の体をささえ、タオルで拭いたり、食事を運んでくれたり、まさしく「障がい者」と「健常者」が逆転した世界でした。いいえ、そもそもそんな「境界」がなかったことをあらためて教えてくれました。
夢屋をともにつくってきた青年が逝き、9年目。新たな仲間たちが、今、厳しい現実の中だからこそつながりあい、「夢屋」という舞台で「勇気」をくれているように思えます。『人の世に熱あれ、人間に光あれ』この言葉の重さと尊厳、そして切なる希求と具現化は、おそらく生きつづける限り追い求めなければならないテーマだと考えています。

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