夢寺子屋~レポート集~

●阿蘇市学校人権・同和教育部会課題別研修会 ~「共生」の教育~

2013. 8/8 作業所「夢屋」代表 宮本誠一

1.はじめに ~ごく普通の願いから~

1995年2月6日は当時宮地小に勤務していた私が退職願を出した日です。地域に住む障がい者がごく普通に地元で生活できる一助になれば。そんな思いで同年4月から夢屋の活動(場所づくりから)が始まり19年目になりました。その後きっかけをつくってくれたメンバーの死(2000)、法改正に伴う組織のNPO化(2006)、蔵原への移転(2008)などを経、現在は地域活動支援センター(Ⅲ型)として12名の登録者がおり、5~7名が通所しパン作りと販売、『夢屋だより(年5回)』発行、支援学校や地域の小中学校との交流を主な柱としてやってきています。

2. 本人を始め、家族の高齢化とともにやってくる節目。~必然をどう受けとめていくのか~

2003年は支援費制度施行により、それまでの措置制度から契約制度へ福祉行政が大きく舵を切った年です。夢屋にも数人が当時の一の宮町役場からの紹介でやってき、今年11年目を迎える道子さんもその一人でした。数年前からお母さんが、そして今年5月にお父さんの健康の事情で相談を受け、7/6にくんわ相談支援センター長、市役所職員、私、本人と家族(妹さん)で会合を持ち、共同生活援助の入所先を探しました。つまりは夢屋の卒業です。

道子さんは支援学校卒業後、夢屋に来るまでに授産施設や漬物屋、野菜選果場などで働きましたがなかなか長期就労につながらず、家に引きこもりがちだったときお母さんと二人で訪ねてこられました。持ち前の明るさと積極性を発揮し、特に発表や交流の場で歌の披露などをして盛り立ててくれました。本当に残念ですが他のメンバーやスタッフにも同様の高齢化(家族も含む)による状況の変化はやってきており、今後、夢屋が対処していかねばならないテーマでもあります。

3. 最後まで、ともにいることを選んだメンバーたち。~自立が新たな時間をつくりだす~

2年ほど前、つまりお母さんの体調不良の時期と重なる形で道子さんには「物を隠す」という行為が始まりました。それはメンバーの持ち物から、やがて夢屋の道具類へと広がり、そのたびに作業を中断し、全員で探す行為がほぼ一年続きました。最初の頃は一回ごと道子さんを含め皆で話し合い、彼女の気持ちをできるだけ聞き出し、本人への対応、たとえば言葉づかいや好きなパンづくりが減っていることへの不満、さらにそういった実態に気付いていない私への訴えではと改善を試みましたが、当の本人がむしろあっけらかんとして笑い出したり、隠したことも場所も忘れている中、メンバーや私に疲労が蓄積していきました。次々と思いついた場所を言うことでこちらが翻弄され、ときには家に持ち帰っていたこともあり、お父さんに相談し私や竹原さんが家へ上がらせてもらい探したこともあります。そんな中、苦肉の選択として4日の通所を3日にしてもらことにしたのが今年初めのことです。

「やっぱり、道子さんがおらんとさみしかね」初めて一日減らした日、いつもは道子さんへの不平をこっそりと漏らす達雄さんがぽつりとつぶやき、他のメンバーも同様の様子に私は内心、状況次第では夢屋での対応は難しく、他の施設入所も含め家族と話し合わねばと考えていたのですが、やはりこの一言で3日だけは支援していこうと心に決めました。とは言え手を伸ばせば何かに届く狭い場所では「物隠し」はほんの一瞬の隙をつき起こります。そこで道子さんには一人のときはベランダの部屋で来客の対応などをしてもらい、室内の仕事は私がつきっきりで行動することにしました。それができるようになった背景には半年前、私が腰痛で動けぬ状態になり、その間、千夏さんを中心にパンづくりから袋づめまで全工程を任せられるようになって、メンバーの自立(成長)が新たな時間を生み出すもととなり、道子さんといることを可能にもしていったのです。

4. 「後7年、ぜひお願いします」~僅かな先であっても“見通し”が立つということ~

朝、送迎に行き、いつものように玄関で幸一さんの身支度を手伝っているとき、道子さんの事情を聞かれた幸一さんのお母さんが、はっきりおっしゃいました。

「私も他人事ではありません。うちは自分の年齢も考えて後7年、夢屋さんでぜひお願いしたいです。その後は○○(某施設名)に入所できればと思っています」「それなら、お互い健康には気をつけなくちゃいけませんね」私は苦笑いともつかぬ表情で答えたことがありました。

この苦笑は、こちらにはこちらの事情(この先の予測不能な事態も含む)があるにもかかわらず、お母さんが自分の計画をあまりに素直に話されたことへの思いがありました。

しかしよくよく考えるに、具体的に「あと7年お願いしたい」ということは、はっきりとした見通しが立っている証ですし、その「見通し」に夢屋の存在が組み込まれていることを意味します。「最近、あら、わざわざとってくれたのね。それ使うから下さいねって言うと、投げ出さずにリモコンをちゃんと手渡してくれたり、夜起きてトイレを知らせてくれたり、成長を感じるんです」そんな変化があっての希望なのだと、朝の起床時の腰痛体操や仕事後の体力づくりに一層励む昨今です。

5. まとめ~19年目を迎え、改めて考える「共生」の意味。誰にとっても必要な場所だからこそ~

先日、ある福祉関係の全国組織の本部から実態調査のためぜひ答えて欲しいと要望があり、アンケート用紙が送られてきました。その項目の中に「障がい種別」というのがあり、「身体、知的、精神、高次脳、発達、難病、その他」に分かれていて、そのすべての人が夢屋にはいることに気付きました。設立当初から他の作業所と違う点として少人数ながら様々な障がい種の利用者が集まっているとは感じていましたが、まさに19年間一貫した特徴のようです。それは相談にみえられた方はまずはどんな障がいであれ受け入れ、とにかく自分で体験し、合う合わないは決めてもらっていることにもよりますが、開所時の反省も大きいです。当時、行政にできるだけ早く実績を認めてもらうため利用者集めに奔走し、なかなかうまくいかず悩んでいた時期がありました。そんなとき、書類上のことよりまずは原点に戻り、正さんが生き生きできるところをつくろう、重度の発達障がい者である彼が楽しいところなら、そのうち自然とここが気に入ってくれる人が集まって来るよと私、竹原さん、正さんの家族で確認し合った、その考えを大事にしてきた結果でもあると思います。

今、夢屋は一番多いときで7名が同じテーブルに座り、一杯になります。午前中は千夏さんと美樹さんが中心となってパンづくりに勤しみ、自分たちでつくった昼食を配膳し食事する風景はまさに家族そのものです。三時からは竹原さんも加わりコーヒータイム(コーヒー以上に彼女が持って来るおやつを楽しみにしている人もいます)。そこにはこれといった厳しい規則はなく、各々がある程度自分のやるべきことを、あるいはやりたいことを主体的に、または勝手にやっています。それでいいと私は思っています。一緒にいることが何より大事だし貴い、そう思うからです。それを教えてくれたのも最終的に施設入所という選択を余儀なくされ、人生の終末を本人の意にそぐわぬ形で、家族や地域から離れ暮らさねばならなかった正さんのような気がします。

昨年、私は腰痛と下肢の痺れで4か月、ほぼ寝たきりでした。その間、竹原さんやメンバーらは私の世話だけではなく、パンづくりを始め日々の運営を休まずに続けてくれました。そんな中、幸一さんだけはどうしても見ることは難しいと判断し、やむなく別の施設へ預かってもらいました。お母さんはご自身も相当、腰痛で苦しまれたご経験があり、二週間おきくらいに容態を気遣う電話を下さいました。

二月ほどたった時だと思います。予想以上に良くならない状態に私も苦痛の中、焦りも重なり夢屋の今後に悲観的になっていたとき、お母さんは電話の切り際、「宮本さん、どうか私たちを見捨てないでください」そうおっしゃったのです。私は一瞬、言葉を失いました。自分でさえ、この先どうしていいのかわからない、そんな状態の今、見捨てないでくれだなんて。見捨てないでほしいのはこちらの方だ。そしてこんな姿の自分に必死な投げかけをしなくてはいけない幸一さん家族の置かれている現在の状況、様々な思いが錯綜し、電話後、涙がしばらく止まりませんでした。

「共生」とは一体、何でしょう。理屈でないとはよく言われます。まして綺麗ごとでできることでもないでしょう。しかしはっきりわかっているのは生きていくために、より自分らしく普通に日々の生活を営むためには誰にとっても当たり前のことだと言うことです。だからこそ「共生」はある一部の集団や個人、クラスなどの小単位だけでなく、常に学校全体で、そして地域や社会の人たちとともに考え、日々の努力の中でつくりだし支えていかなければならないし、そうすることでまた各自の「共生」の意味もわかってくると思うのです。

●2014(8/7) 阿蘇市人権同和教育部会課題別研修会・『共生』の教育。             ~20年を振り返って「共生」とは何かを考える~ 

地域活動支援センター「夢屋」代表 宮本 誠一

1995 .4/1から 2008.4/30 までの宮地時代~ 

小学校教員だった当時、卒業生である発達障がいの青年と運命的な出会いをし、33歳で退職し、学校のほぼ正面にあった青年の自宅一階を改装し、オープンさせました。パンづくりを運営基盤にしながら、まだ珍しい喫茶方式だったため県内から多くの見学者がやってきました。障がい者自らがつくったパンを配達し販売することで地域の人たちのつながりができ、一人ひとりの意欲と自立への自信へとつながっていきました。地域の小中学校との交流も盛んに行い、毎日つづる日誌によって日々の生活を伝えるようになりました。青年は2000年に亡くなりましたが、その後8年間、この場所で地道な運営をつづけさせていただき、次の蔵原(くらばる)の地へ、歴史を受け継いでもらうことになりました。活動期間は丸13年に及びます。

 2008. 5/1 から 現在までの蔵原時代~

一の宮町宮地の地から、NPOメンバーである理解者(竹原幸範さん)の土地をお借りするとともに、同じくメンバーである解体材を扱う仲間の力によって低コストによってつくっていただき、新たな生命(いのち)をいただくことになった「夢屋」です。

<夢屋の20年間の歩み>

  • 1995
    4月、下原猛さん宅一階で、作業所づくりに着手。内装、壁塗りは自分たちで行う。
    7月、奥の厨房を先に完成させ、パン作りを開始。旧一の宮町役場、学校などに販売。
  • 1996
    4月、小規模作業所「夢屋」として正式オープンし、開所式を行う。
    8月、広報『夢屋だより』第1号を発行。その後、年5回編集作業を始める。
  • 1997
    安田火災記念財団、新日本友の会、ヤマト福祉財団、電気通信普及財団、「24時間テレビ」「NHK・わかば基金」「朝日福祉助成」より様々な助成を受ける。
  • 1998
    2月、第1回「くまもとやさしいまちづくり賞」受賞。
  • 1999
    5月、猛さんの父親が交通事故死。その二週間後、下原猛さんが、入所していた施設2階から飛び降り事故を起こし腰椎粉砕骨折。2ヶ月半後奇跡的に下肢機能が回復し退院。
    10月、一の宮町の「差別をなくす子ども集会」の成人部門で発表。大きな反響を得る。
    12月、地域の子どもたちと交流するため「夢屋ウィズ・ユー・デイ」開始。
  • 2000
    2月に通所者の日野正徳さん、5月に下原猛さんが心不全のため死去。
    8月、日野さん、猛さんを偲び、「共生」について考える第1回『游人の日』を開催。
  • 2001
    2か月に一度、一の宮町在住の難病者の外出支援で阿蘇市や熊本市内、県外と出かける。
  • 2002
    1月~12月、「夢屋ウィズ・ユー・デイ」が軌道にのり、リース、ろうそく、野草をつかったおだんご、万華鏡、綿菓子づくりと幅を広げていく。
  • 2003年                                  4月、支援費制度施行(措置制度から契約制度へ)その後、中島地利世、高倉深雪さんなど入所。また小中学の特別支援学級の児童、生徒さんの現場実習も増え、竹下舞さんはその後も夢屋へ週に一度通所し11年目。
    8月、第4回「游人の日」で自立を目指す障がい者を描いた記録映画『障害者イズム』上映。
  • 2004
    9月、ホンダ系の労組から発酵器の寄贈を受ける。
    山田小学校へ、週1回、のべ35時間の総合的学習として授業参画。手話、パンづくり、絵本づくりの三本柱でメンバーが一丸となってやりとげる。
  • 2005年                                   4月、地元の入所施設から自宅通所の形でUターンし井上拓郎さんが入所。
    10月、第6回「游人の日」ピアニスト豊田隆博さんのコンサートを「野菜ty」で開催。メンバーらでつくる「游人バンド」もすっかり定着する。
  • 2006
    4月、宮地小、山田小、中通小など総合的学習で交流を始める。         6月、NPO夢屋プラネットワークスとして認可を受ける。
    10月、阿蘇市から「地域活動支援センター」の委託をうける。
    スペシャルオリンピックスのトーチランに参加。
    11月、小国養護、大津養護学校から実習生の受け入れ。
  • 2007
    7月、阿蘇市学校人県・同和教育部会課題別研修会に「夢屋」全員で講師として参加。
    9月、阿蘇中学校、一の宮中学校生徒が福祉体験。
    10月、内牧小学校・しいのみ学級との交流。                     11月、熊本パイロットクラブ様より、チャリティーダンスパーティー企画によりご寄附をいただく。                                   12月、第7回「游人の日」に熊本ふくし生協理事長の中村倭文夫さん講演。
  • 2008
    1月、熊日新聞新春地域特集号の巻頭で夢屋の活動が「ほんなもんの力」として紹介される。
    5月、蔵原(竹原幸範さんから提供していただいた土地)へ移転。
    10月、阿蘇ふれあいフェスタなどへの参加が定着。
    12月、メンバー中島地利世が県ハートウィーク主催「心の輪を広げる体験作文」で優秀賞。
  •  2009年
    1月、山田小学校、一の宮中学校などから交流学習や職場体験に来る。
    2月、阿蘇ワイズメンズクラブで、代表宮本が「夢屋」の活動を講話。
    3月、宮地小学校との交流。                         4月、一の宮中学校を卒業後、小嶋康揮さんが入所。
    7月、熊本大学教育学部特別支援教育学科の大学院生に活動を報告。
    10月、阿蘇ふれあいフェスタのステージで『みんなマイダーリン』『坂道』『花』を披露。
  •  2010年                                  2月、「野菜ty(のなてぃー)」が「簡易宿泊所」(旅館業法)として認可。
    3月、ふれあいサロン大会に参加。                      4月、地元小中高学校卒後、専門学校を修業後、池邉美早さんが入所。
    6月、熊本県人教「進路保障(就労)研修会」で活動を発表。夢屋ブックレット1号『游人たちの歌~ある自閉症の青年らと生きて』刊行。
    9月、国際協力NGOボランティア・プラットフォームにHP制作依頼。
  •  2011年                                       2月、部落解放第42回熊本県高校生集会の参加者(40名)、部落解放同盟甲佐支部の皆さんが来所。                                     3月、夢屋スタジオで渡辺大さんが初ライブ。絵本の読み聞かせやトークも織り交ぜ盛り上がる。                                       6月、千葉県から被災者家族が野菜tyに一か月間宿泊し、居住地探しに協力。夢屋ブックレット2号『往生岳の麓にて~障がい者作業所から見た本と時代の風景』刊行。                                8月、熊本県聾学校で「発達障がい者を取り巻く現状と作業所での取り組み」をテーマにメンバーとスタッフで講話。                             10月、ネットの『You tube』で、夢屋の様子を動画配信開始。
  • 2012年                                                                 2月、山田小学校6年生とのパンづくりを通した交流学習。             4月、中島地利世、高倉深雪さんの10年目を祝し、オルモ・コッピアで昼食会を開く。                                   7月、益城町人権教育課題別研究会(本大会)に協力者として出席(竹原)。                                  12月 『阿蘇市人権フェスティバル』に参加。パンや書籍の販売し完売する。
  • 2013年                                      1月、代表宮本の小説『有明』が熊日文学賞最終候補作。(2回目)。                               2月、熊本大学大学院教育学研究科修士課程の学生9名と教授1名が学習を兼ね来所。夢屋ブックレット3号『お月さまとゆず』刊行。               3月、中島地利世さん、高倉深雪さんが10年目を無事終了。                             7月、高倉深雪さんの今後を本人、市職員、相談支援センター長、家族、宮本で話し合う。益城町人権課題別研究会の協力者として宮本が出席。                8月、北海道からの自転車での一人旅の青年が「野菜ty」にご宿泊。          9月、熊本学園から学生35名が災害要援護者の減災型地域社会リーダー学習のため訪問。代表宮本が『夢屋』の成り立ちを話した後、下村津代さんが盲導犬を連れて参加。視覚障がい者の日常と、災害に遭遇した場合の悩みや課題などを講話。(好評につき2014年度も実施)                      10月、阿蘇市読書感想文コンクール審査会に出席(宮本)。
  • 2014年                                      1月、『お月さまとゆず』が100点の中から、熊日出版文化賞候補作15点に選ばれる。                                  2月、山田小から児童17名、職員3名が体験学習でパンづくりをしながら、「共生」の学習を行う。『夢屋』の歴史も学び、質疑応答もあり、充実した学習を送る。                                   4月、夢屋起工、パン工房を開始して20年目に入る。

●2014(8/7)資料編~私自身の「共生」に対する考え方のターニングポイント~                  

  • 198384  学生時代。~障がい児、者との出会い~

北九州市の民間のボランティア団体『障がい児の遊びを考える会』、通称『遊びの会』に2年間所属しました。「母子分離」「地域社会に根差した活動」「健常児との交流」の三本を柱に『サマーキャンプ』『バスハイク』『クリスマス会』等、月一回の定例会を行っていました。

障がいのある、なしに関係なく本人の希望する生き方をできるだけ可能になるように家族を始め、周囲の人間がかかわり協力しあっていくことや、ハンディを本人の努力だけで「克服」するものととらえるのでなく、社会や環境、周囲の課題やテーマとして考えることの大切さを学びました。

  • 19931995 宮地小時代 ~被差別の子たちとの出会い~

クラスには障がい児や被差別部落の子、いじめられている子らがいました。それら被差別の子どもたちをどうつなぐかに主眼を置きました。結局は根底にあるのは『差別』の構造であり、クラスの一人一人の根っこに「反差別」の感性や意識の共有性がないと押し付けられたものになってしまうし、長続きはしません。よって、実践の形としては日常の些細な中に潜んでいる事象を見逃さず、その都度掴みだしてはより具体的に学び、乗り越える営みを子どもたちと一緒にやっていきました。

実際に取り組んで行った内容としては、障がい児との共生に関しては同じ時間と空間を可能な限り多く共有する暮らしづくりを、被差別部落出身の子に関しては家庭訪問を繰り返す中で親の前向きな生き方を学ぶ(認識する)基盤づくりを、いじめを受けている子に関しては、その子のクラスでの立ち位置を安定させるための他の子たちとの関係を含めた土壌づくりを行っていきました。

「つづり」の実践、日常を書き、それを推敲したり読み合うことで自分自身の生活を見つめ、とらえ直す機会が生まれたり、子どもや教師との関係が深まることに気付かされたのもこのときでした。

  • 19952014「夢屋」時代 ~発達障がいの青年を始め地域の障がい者との出会い~

障がい者とその家族を取り巻く現実の厳しい社会状況が、小規模作業所の設立と運営と言う共通する目標へ向けてともに歩んでく中で否応なく突きつけられ、これまでの自分の認識の甘さ、「理屈」が先になりがちな「共生」観を根本から見直す機会となりました。

日々、障がい者や健常者に限らず、様々な考えや立場にある人たちが共に暮らす営みを継続してやって行くためには、コミュニケーションを相互に図りながら、現実に用意されている物(制度も含む)や人材をいかに生活の中で活用していくかが求められます。「共生」の理念は机上の空論から生まれるわけではなく、そうした具体的な事象の積み重ねの上でつくり上げられるものだし、だからこそ、それぞれのケースに応じた多様な形があるのではないかと考えるようになりました。

ただし、その核となるのは既によく言われてきたことかもしれませんが、互いに「違いを認め合える(他者を排除しない)関係」として結びつきながら、それぞれに「安心できる(自尊心をもてる)居場所」が備わっており、最終的には「自分自身を受け入れることのできる(他人との関係も受け入れられる)自分」の形成が日々の暮らしの中で少しずつ図られていることが「共生」にとっての必要な条件になると思うのです。

●2017年度阿蘇市学校人権・同和教育部会課題別研修会「共生」の教育

~メンバーの個々の生活から見えてくること~

2017.8.9作業所「夢屋」代表 宮本誠一

1. はじめに

1995年春、当時、阿蘇郡内初めての小規模作業所として今は亡き発達障がい者の青年とその母親、私、そして現副代表である竹原の4人で構想を立て、当事者としての活動面、パンづくを中心とした作業面、介護支援面、資金面と各自が分担し、旧一の宮町に産声を上げた夢屋も23年目に入りました。途中、相次ぐメンバーの死、宮地から蔵原への移転(20007)などがあり、現在は登録者13名、通所者5名~7名の中、地域活動支援センター(以後「地活」と表記)Ⅲ型として運営しています。地活は二階建てのシステムでよく説明されます。一階は地域の実情に合わせての創作的活動や生産活動の機会提供や社会との交流促進を目的とする部分、二階はⅠ型、Ⅱ型、Ⅲ型の三つの型に分けられ、Ⅰ型(定員20名)は、障がい者が地域で暮らしていくのに必要な理解や啓発活動、相談支援事業、Ⅱ型(定員15名)が機能訓練や入浴サービス、そしてⅢ型(定員10名)はかつて最も多く点在していた無認可の小規模作業所が移行できるよう設定され、授産作業を行うなど就労継続支援に一番似ている形です。ただ、内実はあくまで障がい者本人が気軽に通える〝居場所づくり〟の面が大きく、規模や財源も小さなものです。

2. ふと思った、帰路につく後姿の向こうはどうなっているのか

現在、夢屋は月曜日を地域の小中学校などとの交流や体験学習などの受け入れと事務整理、訪問、火曜から金曜日まではパンづくりを始め、その準備や配達、『夢屋だより』の原稿書き、印刷発行、昼食づくり、掃除、洗濯、好きな表現活動(イラスト描きや歌や漫才、畑仕事)などに充て行っています。つまり、金曜日の午後15:30頃、最後の配達先である佐藤菓子(向栄堂)さんが終わると一番ホッとするときです。たまに向栄堂さんでお菓子などを買い、おやつ代わりに渡して解散という事もあります。「寄り道せんで帰らなんよ」そんな言葉を一番新しいメンバーであるBさんにかけます。と言うのも彼女が、入所以来、たまに地域の店やコンビニに立ち寄っていることをDさんから聞き、いつの日かそれが注意事項となりました。ただし強制はしません。あくまでも主体性に任せ、まずは家に帰ること、それからどうしても外出したいときは家の人にちゃんと言ってから出るように話しています。それはともに一緒に活動していく上での「約束」や「ルール」の大切さと「防犯意識」を身につけてもらうためで、Bさん本人も納得し、しっかり守ってくれるようになりました。それでもどうしても誘惑に抗しきれないときはあるようです。

「中がどんなかなあって、とにかく気になって。トイレも借りてます」笑って答えるBさんを見ながら、彼女のたくましさと地域の方々の温かさに感謝しつつ、あるときふと思ったのです。金曜に限らず、毎日夢屋での活動を終え、帰宅していくメンバーそれぞれの後姿の向こうには、家族も含めどんな光景が広がり、何を考えているのだろうか。これまで本人や保護者から入所時の面接を始め、ことあるごとに聞いてはいたものの、何か、まだ本当の部分はわかっていないんではないのか、そう思ったのです。

3. 意外だったり、なるほどと感心させられたその中身

そこでB、C、D、Eさんには縦に時刻を書いた用紙に帰宅後の行動と、そのときどんなことを考えたか順次記入してもらいました。Aさん、Eさんには私が直接本人や保護者から聞き取りました。

まず、Bさんですが、帰路につくや「ピーターパンになりたい、世界旅行したい」という言葉が出てきました。夢屋が終わったとたん、そんな解放感とも夢の世界ともつかない心理状態になっている彼女にとって、道沿いの店を覗くことはいわば自然ななりゆきのようなものです。だからと言ってそれを許せば、どこまでもそれこそ〝ピーターパン〟になってなりふりかまわず飛んで行ってしまう可能性もありますから、時には睨みを利かすフック船長の存在も必要というわけです。

Cさんは、『夢屋だより』に書いてくれている文体とほとんど同じ文体で、日常もほぼそれと似た感覚で生活していることがわかりました。その中心をしめるのは、失敗をできるだけやってはいけないという「恐れ」と、それへの懸命な防御で、〝ねばならない〟と言う「義務」感を強く感じます。そこから人一倍強い『責任感』が生れているCさんの生真面目さはとても素晴らしいことですし、様々な活動をやっていく上でも貴重なものですが、ときには肩の荷を下ろしリラックスできる場づくりも、こちらとしては用意しなければならないと再考させられた次第です。

Dさんの日常はとても深刻です。「明日から夢屋が休みか…。月曜までがんばらねば」にすべてが凝縮されています。病身のお母さんの看病と介護に身を費やす彼女の言葉は、おそらく高齢のご両親などがいらっしゃったり、似たような境遇の方には身につまされることではないでしょうか。ここではDさんを孤立させないことが大きなテーマのように思います。入所して15年、活動を通じいろんな経験を積んできたDさんですが、今ではお母さんも夢屋を信頼して下さっており、こちらも様子を尋ねては相談にのることはもちろん、毎日、昼食を多めにつくって持って帰ってもらい、資料の文面にもあるように朝食にお味噌汁などを活用してもらっていることはありがたいことです。

またAさんは、移動支援事業の一つである同行援護の実態、Eさんは睡眠導入剤を使うかどう悩まれるお母さんの葛藤の様子などがはっきりと見えてきます。

4. まとめ~まずは心を真っ白にして知ること~

かつて私の教員時代、よく同和教育(今の人権教育)の研修などの場で家庭訪問の是非が論議に出ていました。「家に行っても保護者に何を話したらいいか、どこまで入ったらいいかわからない」そんな言葉を「行かない理由」としてよく耳にしたものです。私は児童生徒の家に出向くのは決して「何か」を言ったり、見たりするためではないと思っています。どうしても今日の授業中のあの様子が、クラスで、班で、友達に、教師に発した言葉が気になるから、つい家庭に出かけ、〝思い〟を保護者と共有し合う、それでいいのではないかと思うのです。そこから両者に「信頼」が生れれば自ずと見つめるべき、発言すべき「何か」は双方に浮かび上がってくるものだと考えます。ときには両者とも「わかってはいるが、今はいかんともしがたい」と首を傾げ合ってもいい、そう思うのです。

そこで重要なのが日々の活動を平時からできるだけ知ってもらっておくことだと思います。学級通信や、〝つづり〟をとおしてのやりとりもその方法でしょう。夢屋の場合、季刊で出しているお便りを、パンのお客様だけではなく、市役所の各課やメンバーがよく立ち寄る店などにも配布しています。「新聞とかより、これが一番面白か」と言って、お礼に決まって缶コーヒーを下さる方もいらっしゃいます。

またEさんですが、送迎もしている関係上、朝、布団から出てくるときの様子や保護者の表情から、昨夜の睡眠がうまくいったかなど、ある程度のことは窺えます。しかしだからといって安易な言葉かけはせず、本人の挙措動作の微妙な変化や保護者のつぶやきやささやきを聞き漏らさないよう心がけています。そして、「これは」と思ったときは、いつでも自分なりの考えやアドバイスが言えるように用意はしています。

考えてみればメンバーや家庭の日常を知り「生活者」としての視点でとらえ直していくことは、一人の〝人間〟として見る上で当然のことです。今回の資料からも改めて健常者と障がい者との「境」がいかに曖昧なものかということがわかります。生活の中での喜怒哀楽を知り、共有し、共感し合うことでそれぞれの生き方や子育て、教育での実践の糧や刺激となり、それらが循環しながら各自成長していくと思うのです。焦らずに、しかし地道かつ着実に「関係」を深め合っていくことが基本でしょうし、その方法を、それぞれの立場や現場で模索していくことが大切と思うのです。

●2017年11月13日(月)一の宮小 発表 中島 地利世

私は、長崎県の「対馬市」という所の出身で、阿蘇に来てもうすぐ16年になります。

3歳の頃の病気がキッカケで左耳が聞こえなくなりました。

右耳も少しずつ聞こえなくなってきていますが、そういう時は、紙に書いて会話してもらったり、相手の口の動きをよくみながら、なんとか日常生活をすごしています。小学校にあがるまでは、「これが自分だ」と思い「人とちょっと違う」という実感はなくて、とくに何事もなく暮らして、小学校に入学してからが、何かと不便だと思うことが出てきました。

例えば…急に移動教室などがある時、休み時間の時に先生が場所を伝えに来るのですが、言うとすぐどこかに行ってしまいます。クラスの皆がガヤガヤ騒いでいたりして聞こえなかったので、隣の生徒に聞いても教えてくれず、先生を追うのですが見失って、教室に戻ると誰もいなくなって、ますます場所がわからず、困るという事がよくありました。一度だけ勝手に学校から逃げ出して帰った事もあります。

私達、聴覚障害を持った人が会話をする時によくする事は、相手の口の動きをじっと見ます。

この行動をすると気味悪がられて「何で睨むのか」とか、そうまでして口を見てもわからなかった時「話を聞かんでバカにしとる」とよくイジメにあっていました。言葉もだんだん酷くなって、呼ばれる時はいつも名前じゃなくて、「おい、バイキン!」か「耳なし芳一!」でした。一番つらくて泣いてしまった時は「あんた脳みそ入ってないけん、人間じゃない」という言葉でした。

中学生になると今度は暴力もされるようになりました。

私が行っていた中学校は、先輩 後輩の上下関係がすごく厳しい所で、そんな事を知らなかった私は、知らない相手には簡単な挨拶だけしていました。そんな私の態度が気にいらなかった先輩に、誰もいない部屋に呼び出されて、頬を殴られたり、手の甲にタバコの火を押し付けられたりもしました。そんな日々の繰り返しの中、人とコミュニケーションとる事が苦手になってしまった私は、卒業後、地域の会社に就職してからも、なかなか人の輪に積極的に入れなくなりました。

職場では、やっぱり耳が聞こえない事で、まずは仕事内容がうまく伝わらないので「はよ、辞めてくれんかね…」と面倒がられる扱いで、どこも長続きする事が出来ませんでした。

だんだん家からほとんど出る事がなくなり、「自分はこの世に必要ない…死んでしまいたい…」と、頭痛薬などをわざと多めに飲むようになっていきました。そんな時に、家庭訪問に来られた妹の担任の先生で「衛藤るみ」さんという方に、母が私の事を相談すると、「夢屋」を紹介して下さいました。

「夢屋」には、私より1週間違いで入所してきた女性がいました。彼女は数を数えるのが少し苦手でした。パン作りでケースの数を数える時など…私を頼ってくれましたが、何回 教えてもわかってもらえなくて、最初、彼女に対して「何でこんな事もわからないのか…」とよくイライラしてバカにした気持ちを持ってしまいました。彼女の方は、私がイラついていてもいつもニコニコしてくれていて、相手が誰であろうと、性別、障害がある・なし、そんな事、一切 関係なく、ただ今 目の前にいる1人の人間を相手に、いつも楽しそうにしていました。

「夢屋」に来るまでは、「誰もどうせ自分を受け入れてくれないんだから」と相手の事をよく知ろうともせず、決めつけて、自分を差別していた人と同じように、私もまわりの人を差別の目で見ていた事に気付きました。

そこで私は、彼女への教え方の方法を変えて、「パンケースをメンバーの茶碗やおかず皿の数に例える事にしてみました。ケースを一個一個 手に、メンバーの名前を言いながら数えて貰ったり、他には、数を数える時、自分の口が必要な数を言った時に手を止める…などしました。すると彼女はその方法で、ミスなくスムーズに揃える事ができるようになりました。みんな、得意・不得意があって当たり前なのだから、その人ができるやり方を作りだしてあげれば良いだけ。と思いました。

結果的に自分も自信が持てるようになり、パン作りの基礎から、今では焼きあげるまで、全部 任せてもらえるようになって、「私も誰かに必要として貰えるようになったのかな?」とそれがまた、どんどん自信に繋がっていきました。

今は、夢屋を紹介して下さった衛藤先生や、出来るか出来ないか、まずは何でもチャレンジさせて来てくれた宮本さんに感謝しながら、メンバーに支えられながら、“今”自分にできる事をコツコツと頑張っています。

●2018年度阿蘇市学校人権・同和教育部会課題別研修会「共生」の教育
大学生の感想文から見えてくるもの。
~障がい者と健常者との〝出会い〟について考える~
2018.8.2作業所「夢屋」代表 宮本誠一

1. はじめに  
1995年春、当時、阿蘇郡内初めての小規模作業所として今は亡き発達障がい者の青年とその母親、私、そして現副代表である竹原の4人で構想を立て、当事者としての活動面、パンづくを中心とした作業面、介護支援面、資金面と各自が分担し、旧一の宮町に産声を上げた夢屋も24年目に入りました。途中、相次ぐメンバーの死、宮地から蔵原への移転(20007)などがあり、現在は登録者13名、通所者5名~7名の中、地域活動支援センター(以後「地活」と表記)Ⅲ型として運営しています。地活は二階建てのシステムでよく説明されます。一階は地域の実情に合わせての創作的活動や生産活動の機会提供や社会との交流促進を目的とする部分、二階はⅠ型、Ⅱ型、Ⅲ型の三つの型に分けられ、Ⅰ型(定員20名)は、障がい者が地域で暮らしていくのに必要な理解や啓発活動、相談支援事業、Ⅱ型(定員15名)が機能訓練や入浴サービス、そしてⅢ型(定員10名)はかつて最も多く点在していた無認可の小規模作業所が移行できるよう設定され、授産作業を行うなど就労継続支援に一番似ている形です。ただ、内実はあくまで障がい者本人が気軽に通える〝居場所づくり〟の面が大きく、規模や財源も小さなものです。

2. 熊本大学からの招待と感想から見えてくること
そんな中、今年1月19日、『現代教育を考えるB』に熊大の古田弘子教授からゲスト講師に招かれました。184名もの学生の前で話すのはメンバーもスタッフも初めてでしたが、精一杯これまでの日常の暮らしや活動の様子を伝えてきました。古田さんからはその後、学生全員の感想文を送付していただき、『夢屋だより(109号)』にも抜粋し掲載さていただきました。(資料Ⅰ参照)
感想の内容を大きく分けると次の三つの傾向になるように思えます。
A・幼少期から小中高までの学校教育の中で、障がい者と同じ空間を共有した経験が少ないか皆無だったため、今回の障がい者(当事者)の話が新鮮だった。②➃⑤⑱⑩⑪⑬
B・障がい者との出会いやかかわりは自分なりにもっていたつもりだったが、メンバーたちの様子や話す内容が抱いてきたイメージと異なり、障がい者観や今後の関わっていく方向性に変更をもたらした。①⑥⑦⑧⑨⑫⑮⑯⑰
C・メンバーたちの姿や発言を通し、自分の生き方や生活を振り返らせ、むしろ不自由さや孤立の中で生きているのは自分たち「健常者」の方ではないかといった振り返りをもたらした。③⑭
ご覧のように圧倒的に多いのはBです。今までの各自の個別な体験がまずあって、そこへ「夢屋」というこれまで知らなかった新たな「情報」が入ることで、両者が練り合わされ、より深い段階へ進んでいくという、他者の意見を自分なりに組み入れた際の常道の思考の流れのように思います。これが多いのは順当で、私たちに話した甲斐があったことを裏付けてくれるものです。またCのように、障がい者と健常者の枠を超え、「人間」としての価値観を両者に当てはめ、落とし込むことで自身の在り方を顧みる(=再帰性)人もあったことはありがたいことです。さてそこで、今回注目したのはAです。ここに掲載されていない感想文も含め、私たちが正直、意外だったのはAの多さでした。これは勝手な思い込みかもしれませんが、これまで義務教育の場でノーマライゼーションやインクルージョンが提唱され、「共生」の教育が進められてきた中、「大学」という場にまで踏み込まれてきた方々は、ある程度の障がい児者との関わりや体験的学習をお持ちであろうとの期待があり、今さらながらその経験や出会いの少なさに驚いたのでした。

3. 果たして本当に障がい者との出会いは、これまでなかったのか。
私たちにちにとって、自分の経験とその記憶が自分にとっての「世界」のすべてであるかのように思いがちですが、言うまでもなくその「私」も極めて限定的な存在であり、知覚や感覚器官も自意識と言う範囲内で働いていることは衆目のことです。そこで今回は、夢屋のメンバー5人(うち一人は保護者)に敢えて反対に、あなたにとっての「健常者」との最初の(もしくは印象に残っている)出会いはいつですか、という質問で、「とてもいい出会い」と「あまりよくない出会い」を大人と子どもに対象を分け、書いてもらいました。(資料Ⅱ参照)
〇自分にとっていいなあと思った人と出会った時期
・子ども 就学前…2 小学…2 高校…1 ・大人  就学前…1 小学…2 中学…1 成人…1
〇自分にとっていやだなあと思った人と出会った時期
・子ども 就学前…1 小学…3 中学…1 ・大人  就学前…1 小学…2 高校…1 成人…1
この数をもっと簡略的にまとめると
相手が子どもも大人の場合も含めての出会いの時期   高校まで…18 成人以後…2
僅か5人の調査ではありますが、だからこそ反対にある真実が見えてくることも否めません。
つまり、熊大生が「今日初めて障がい者と出会った、話を聞いた、交流した」とした感想は、本人にとっては「事実」なのかもしれませんが、実際は障がい者は就学前から高校までの時期に同じ空間のどこかにいた確率は高く、障がい者自身は健常者との出会いとかかわりを行っていたということです。そしてこの数字のギャップをもたらしている原因があるとすれば、健常者の出会いと障がい者の出会いの場を本来つなげたり、重ね合わせたりすることで「共生」の空間や意識を形成し育んでいく役目を負っているはずの主に親や教師や周囲の大人が「不在」、もしくはその場にいても「機能」していなかったため、障がい者の存在を健常者側が意識せず無関心なままで終わっていたのではないかということです。

4. まとめ~二者の関係を周囲にも見れるようにし、全体の問題としてとらえ、考えていくことの重要さ~
「ひとみ(仮名)が誕生してすぐ、障がいだけでなく、合併して起こる先天性心疾患のため、とても状態の悪い時期が続き、78日間、保育器に入っていました。私はひとみに障がいがあることを医師から聞いて以来、とても落ち込んでいました。そんな中でも血液の緊急な輸血や頭蓋骨の未発達ゆえの水頭症の心配など、ひとみの命にかかわる難題が次々とやってきます。お見舞客もきてくれ、ひとみの誕生に「おめでとう」と言う言葉を下さるのですが、それが本当の「お祝い」の気持ちからでないことはすぐにわかるのです。皆さん、ひとみが障がいをもち、これから生きていかなければならないことへの心配や憐れみのような心情を当然お持ちで、そこから発せられていることは明瞭でした。私は授乳のために母乳を泣きながら一人絞っていました。なぜでしょう。周りが冷たかったからでしょうか? 理解がなかったからでしょうか? いいえ違います。むしろ家族も含め、できるだけ周囲の方々は直接的な言葉は控え、そっと見守ってくれているようでした。ではどうして授乳が苦しくて苦しくてしょうがなかったのか。本当に情けないことですが、私はひとみの障がいを受け入れることができず、繰り返される緊急処置があるたびに心のどこかで、『ああ、できればこのまま死んでくれないだろうか』という思いが消えずにいたんです。ひとみを育てていけるかどうかの不安もありましたが、もしかすると兄弟の結婚などに将来、影響するんじゃないか、ということも気になり、本当に苦しくてしょうがなかったのです。でもそんな思いをよそに、ひとみは生きるための難題を必死に一つ一つクリアしていきました。そんなときです。私の母が何かを感じたのでしょう、こう言ったのです。
『ひとみは何にも悪いことはしていない。だからあなたも胸を張って生きなさい』
ちょうど同じころ、授乳に備え、ほとんど一日中、病院にいた私のかたくなさが気になられたのでしょう、主治医の先生からも、こんな言葉をいただきました。
『授乳はね、朝と夕方だけでいいのよ。だからあなたも自分の体を大事にしてね。親と子はねえ、会わなくてもちゃんと繋がってるんだから心配いらないのよ』
そんな言葉に支えていただきながら、ついにひとみは保育器から出る日がやってきました。それでも私は不安な気持ちは消えません。初めてそっと抱いたそのときです。それまで泣く力さえなく眠っていたひとみが私の腕に抱かれるや、予想もしなかったほどの大きな声で泣き出したのです。その声を聞いた瞬間です。『ああこの子を精一杯育てていこう』そう私は心に決心したんです。だから、ひとみにとって最初に出会った最低な健常者、それは何を隠そう、ひとみの障がいが受け入れられず、その死さえ願った母親である私自身です」
本来、命をつなぎとめる大事な役目である授乳が、将来の育児への不安、兄弟姉妹の結婚や就職時に差別となってやってくるのではないかという恐怖や心配によって打ち消されてしまう現実。
これはひとみさんのお母さんばかりではありません。私たちは教育や医療、福祉現場の中で第二、第三のこの授乳に象徴される苦しみの関係(本来、心から祝い、喜び合うべきことが差別や社会の不合理さゆえに本人たちにとっては受苦に変わってしまっている)の中にいる親や子どもをつくりだしてはいないのか。見て見ぬふりをし無関心を装ってないないか、そのことを問わずにはいられません。熊大生の障がい者との出会いの感想文の結果は、おそらく私たち自身の縮図にようなもので、当事者の置かれている状況を周囲にもわかるように可視化し、全体の問題としてとらえ、考えてこなかなかったがために、一人一人の問題として意識化されてこなかったためにあらわれた現象なのではとも思うのです。
日本では1996年に旧優生保護法が母体保護法へ引き継がれ、中絶の項目から「優生条項」が排除されたとはいえ、今もって社会そのものに「共生」の基盤は薄く、経済的不安も含め障がい児の出産と育児に対してはいくつもの壁があることは確かです。そんなことを踏まえ最後に私は、ひとみさんのお母さんに、酷とは知りつつ、思いきってこんな質問をしてみました。
「最近では、胎児の段階から障がいの有無の早期発見が比較的安全に検査できる出生前診断が以前より認知され、行われるご夫婦も増えているようですが、今のお母さんなら検査をするしないも含め、どうされますか。ご意見でもいいですから聞かせていただけないでしょうか」
お母さんは「難しい質問ですね」と一瞬考えられ、「悩むでしょうね。それしか言えません。悩んだ先がもし中絶だったとしても、またそこで悩むんでしょうね」そう答えられ、「でも結局は、一生懸命育てる親がやっぱり多いとは思うんですよね」と、いつもの快活な声で答えて下さいました。

~資料編~
(資料Ⅰ)
①夢屋では一人一人の気持ち、生き方を一番にし、優先していることがわかりました。全員を受け入れ、知ろうとする姿勢を持ち、共生社会を自然と形成している様子が伝わってきました。そのためか、夢屋で働いている皆さんの感性が豊かで素直で、思ったことを自由に発言する環境が整っているように思えました。
②10か月以上、日本という国で日本語を勉強し、文化体験をしながら最初の心構えと意欲は消えました。授業を聞いても集中できなかったし、私は勉強したい日本語と文化についてすべて学び終わったという安易な考えをしていました。そして留学のすべてが飽きていた状態でした。しかし今回の授業に来て下さった方には一日一日の日常に感謝し、社会人として誇りを持って生活していく姿がとても素敵でした。豊かな家庭環境で留学までできた私にとって大きな衝撃を与えました。(中略)外見だけ気になる現代社会人に投げるメッセージのように感じました。
③「自分を受け入れてくれる人たちに初めて会った」という言葉を聞いて、ありのままの自分を認めてくれる人たちがどれほどいるだろうかと思いました。
④今回、当事者の人々の話を聞いて、自分が思っている「普通」とは何なんだろうと考えさせられました。正直、障がいがある人は自分とは違う、日常生活を送るのにすごく支障のある人と言う認識がありました。しかし、今回講義を受けて、日々何を考えているかを知って、全然私たちと変わらないなと感じました。むしろ日常の中に楽しみをそれぞれに見つけていて、私より楽しく過ごしているなと思いました。
⑤私は授業時間の前にご一緒させていただきましたが、実際に障がいを持った方々とお話するのは初めてのことで緊張して、全然発言やお手伝いができなかったことを本当に申し訳なく思っています。お話や講演を通して障がいを持った方々に対する考えが大きく変わりました。(中略)「障がいを持っていても健常者となんら違わない」ということです。もちろん日常生活の中で何らかの支障はあると思いますが、私たちと同じように考えて同じように生活を送っているということがお話から伝わってきました。
⑥中島さんが「夢屋の人たちと関わるうちに心が強くなり、色々な人と積極的に関わっていけるようになった」とおっしゃったのを聞き、やはり大切なのは周りの人の障がいのある方への関わり方や環境づくりなのだと実感した。「具体的にはどのようにしていけばいいのだろう」と私が考えたとき、宮本さんの「普通に」関わるのではなく「差別しないように」関わるべきだという言葉が聞こえ、「なるほど」と納得しました。「自分の中の普通」で関わろうとすると無意識のうちに差別をしていることもありうる…。これは恐ろしい落とし穴だなと思いました。
⑦何より印象に残ったのは知的障がいの方々は日常の生活の中で感受性が非常に豊かだと思ったことである。一日の生活の中でもこと細かなことに気づき、将来に対する夢を持っていることに大きな感銘を受けた。この講演を通して夢屋に限らず障がい者、社会的弱者が私たちと同じように過ごすことができる生活のシステムの構築は重要であることを再確認し、それに対する課題と現状を明確にすることができた。
⑧私は今回の講義で「夢屋」の皆さんのお話を聞いて今まで自分が障がいのある方に対して持っていたイメージが覆されたように感じました。今まで私は、障がいのある方はサポートを「受ける」側であると漠然と考えていました。しかし夢屋で仕事をされている方は、自身も知的障がいや聴覚障がいのある方も家族の介護や他の従業員の方のサポートもしっかりされているということを知り、驚きました。またそういった方々の生活の様子を把握するため各人が日記をつけたり工夫されていることを知り、サポートする側の人もあまりその人の生活に介入しすぎないことが重要であり、それがその人の自立へとつながっていくということがわかりました。
➈今日のお話を聞いて、自分が今まで障がいのある方に対して考えていたことは決めつけでしかなかったのだと思いました。私は障がいのある方に対してかわいそう! とか生活での苦労で、なかなか楽しめないんだろうなと思っていました。しかしお話を聞いてみるとパンフレットを集めたり絵を描くのが好きなど、皆さん趣味や夢を持っていて、そのために一生懸命に努力しているのはかっこいいと思いました。
➉「ピーターパンになりたい」という気持ちから寄り道をする。とても素直ですてきな理由だと感じました。そういえば私も小学生の頃、公園で遊んでいたとき、「トトロになりたいなあ」と思っていたことを思い出しました。
⑪ミサキさんの話を聞き、一番印象に残っているのは「~しないと~になります」と言う言葉である。とても素敵な言葉だと思う。これを心の中に覚えているなら、「時間が間に合わない」や「そうすれば良かったのに」などの事態は避けられるし、言わなくなるだろう。また彼女が非常に充実している生活を送っていて、自分も見習うべきだと思っている。
⑫「障がいがあっては車の運転はできないだろう」とみくびったような考えを今までしてしまっていて、すごく申し訳なかったし、恥ずかしく思いました。
⑬体のどこかに障がいがある人はその他の器官でそれを補う、という話を聞いたことがあり、例えば目が見えない人は聴覚が鋭敏になり、脳に障がいがある方は絵が上手だったり芸術面で素晴らしい才能を発揮することがあると聞きました。見せてもらった絵はすばらしく、この講義で今まで聞いた話の中でも最たる例だと思いました。⑭日常の話を聞いて、規則正しく自らのしたいことにちゃんと取り組んでいる生活を送っているなあと感じ、一般の人々よりもずっと人間らしく生きているのではないかとさえ思いました。
⑮4人の方のお話を伺って、皆さん個性にあふれているなあと思いました。
⑯視覚障がいを持っている方の話で、いじめをうけていたときの対応としてずっと無視し続け、何のリアクションもとらなかったと言うのを聞いて、強い人だなあと感じました。
⑰目が不自由で盲導犬を連れた人が今まで身の周りにいませんでした。講義の前に歩かれているのを見て盲導犬がおとなしいのに驚きました。さらに二人の信頼関係も見えました。横断歩道を渡る際に、音がないと不安だとおっしゃっていて、確かに便利な世の中に思えても実は、まだそうではないんだと感じました。横断歩道以外も日常生活では危険は沢山あるので、もし目の不自由な方を見かけたら声をかけようと思いました。
⑱実際の障がいを持っている人の声を聞くことができたのは、とても貴重な体験だと思った。

(資料Ⅱ)
Aさんの場合
(子どもとのいい出会い)
5歳のとき出会った人は保育園の同級生で女の子でした。とても心が優しい人で、例えば私が、最後まで折り紙が出来ないで心ない友達から馬鹿にされて泣いていたときは「大丈夫だよ」と言っていつも慰めてくれました。
(大人とのいい出会い)
小学校に上がったばかりのとき、学童保育で40代くらいの先生と出会いました。女の先生でいつもは優しく、時には厳しくという感じでした。例えば私がルールを守れなかったり、ついふざけていたり、危ないことをしたりしたときはよく注意されましたが、とても情に厚い先生でもありました。けがをしたときなど手当をしてくれるのですが、笑顔がとてもよくホッとできました。
(子どもとのいやな出会い)
小学校4年生のときに同級生の妹で2年生でした。廊下などですれちがったときよく「キモイ」と言われました。学童保育の友達でもあったので、そこでもいじめにあいました。例えばいきなり後ろから指でつっついてきたり、足のかかとの部分をわざとふみつけにきたりしました。体格はがっちりした子で、私はこわくて注意できませんでした。
(大人とのいやな出会い)
小学のときの先生でした。授業のとき、私がよく答えを間違えたとき、かなり強い感じで問い詰められたことがあって、具体的に言えば「どうして、ちゃんと正しい答えが言えないの?」などを言われたり、「勝手に物をとりだすんじゃないわよ!」と怒ったように注意されたので、とにかく一番い嫌いな先生でした。

Bさんの場合
(子どもとのいい出会い)
高校の時、教室に入ったとき、やさしく遊んでくれたクラスメイトと部活動で一緒に走る練習をしてくれた一つ上の先輩。
(大人とのいい出会い)
夢屋に入ってから、道子さんが栗の皮むきを教えてくれました。そのとき道子さんは、「とがっているところから先にむかなんよ」と言いました。
(子どもとのいやな出会い)
中学のとき教室で男子から「こっち見るな」と言われた。(職員室に行って先生に言いました)
専門学校の実習室で、隣にいる女の子から「さすぞ」とか「バカが」と言われた。(そのとき先生に言いました)
(大人とのいやな出会い)
高校の時、パソコン室で先生が「なんで放課後のこってやらんと」とおっしゃって、私の左腕を強く叩きました。
私は、びっくりして泣きました。

Cさんの場合
(子どもとのいい出会い)
小学校1年のときのクラスの中心的存在だった男の子。私がよくいじめられていたとき、その子だけ「のけものはやめろ!」とかばってやめさせてくれていました。
(大人とのいい出会い)
私は小学2年生まで「ふつうクラス」と当時「特殊クラス」と呼ばれていた2つのクラスに通っていました。
まず「ふつうクラス」で出席だけとって「特殊学級」のクラスに行きます(そのとき特殊学級は私一人でした)周囲が「あそこは変な人ばっかり集まるけん」とか「ばかクラス!」という呼び方をしていたので「特殊学級」の担当の先生がまず「『特殊』という言い方が変だ!」と他の職員の先生に働きかけ、「7学級」という呼び名に変えました。
「百聞は一見にしかず」という言葉が口癖で、授業中、こちらが聞いてもわからないことがあれば、些細なことでもわざわざ「これはな…」とよく外に連れ出して実物を見せながら教えてくれたり、「ただ授業ばっかりすりゃいいもんじゃない!」と先生らしくないことを言って、自転車の乗り方を教えてくれて、乗れるようになるとコスモス畑に遊びに行ったり、よく学校の外へ連れ出してくれました。小さい頃から父親がいなかった私に本当の娘のように接してくれました。
(子どもとのいやな出会い)
小学校のとき耳が聞こえないことで無視していると思われ、「耳なしおばけ」など言われ、頭を叩かれたり足をけられたりしました。
(大人とのいやな出会い)
借りたハサミを返しにいったとき、持ち方をまちがえていたことと丁寧な言い方がたりなかったことを注意されていたのが何度も聞きとれなくて、ただボーッと突っ立たままになっていました。すると突然大きな声で「いい加減にしなさい!」と初めて親以外の大人に頬を叩かれて、耳はキンキンしてビックリしたので、それが強く記憶に残っています。

Dさんの場合
(子どもとのいい出会い)
1年から6年まで私をいじめてきた子は、二人でいるときはとても親切でした。
(大人とのいい出会い)
15才で愛知県に就職して以来、いくつかの仕事についてきましたが、どの職場の人も意外に協力的で理解してくれました。その中でも20才のとき、5つ上の人で、いつも気を配り、周囲から守ってくれる先輩がいて、今も連絡をとっている仲です。
(子どもとのいやな出会い)
1年から6年まで同じ子にいやなことをされてきました。
ただし二人きりだとその子はやさしく接してくれ、集団になったときほかの子に私のことを耳打ちして、のけものにしていました。6年になってからそのことをぶつけてみると、「私がいじわるしても、あなたがはらかかんけん、ムカっとしよったつたい」と言われました。
(大人とのいやな出会い)
どの職場や地域にも虫が好かない人はいますし、私はどんな職場でも、まずは自分の視覚障がいのことを説明し、ある程度、理解していただいた上で雇っていただいてきましたから、常にオープンな形でやってきました。

Eさんの場合
(子どもとのいい出会い)
保育園の時、5才6か月で歩けるようになったのですが、園児の子が皆で喜んでくれたことは今も忘れません。
(大人とのいい出会い)
レポートの「まとめ」を参照。
夢屋さんが朝迎えに来られて、こうして私と宮本さんが話しているのを息子はちゃんと聞いていて、会話の様子から二人の関係がうまくいっていることを感じ取って安心していると思うのです。それを多くの大人は、そんなことはどうせわからないといって、ないがしろにされがちです。でもそういうことを考えていろいろやっていくかどうかは、とても大切なことのように思いますけどね。
(子どもとのいやな出会い)(大人とのいやな出会い)
レポートの4「まとめ」参照
子どもも大人も共通して言えるのは、誰がいやとか言うのではなく、まず最初に感じるのは息子を見る視線ですね。奇異な目で見て、そこに親とかがいた場合、慌てて制止しようとするその態度にさらにがっくりしてしまいます。今もってそういった差別や偏見は変わってないように思いますし、生きずらさを感じながら暮らしているのが現実です。

 

●2021年 阿蘇市学校人権・作文集「かけはし」研修会(「生活つづり方」学習会資料)

 2021・6/28 文責・竹原ナホ子

1.「生活つづり方」とは?(綴るとは?)(坂田次男)

・この社会にはびこる差別や偏見は単純なものではない。日頃の授業、特に人権学習や部落問題学習等の中で、あるいは何か問題が起きたときの取り組みの中で、一生懸命話し合って、どうしたら差別がなくなるか考えて、「差別はいけない」「友達を大切に」という、そんなまとめができる良い取り組みができたとして、それで差別はなくなるだろうか?

「差別」は社会における様々な問題が複雑に絡み合い、差別した方も、された方もその中で複雑な感情をもって生きている。その人間の感情の複雑さを子ども自身が生活の中で一つひとつ細かく自分のことばで確かめていく。そしてそれを表現(綴る)していく。それを続けることで、差別をなくすための思考を身体の中に取り込み、力をつけていく。

・綴るということは「くらしをひらくこと、からだを解き放つこと。感覚をみがくこと、想像すること、学ぶこと、思想を創造すること、そして人間を追求すること」である。〈資料1〉

2.「生活つづり方」の歴史。〈資料2〉

・戦前(大正初期)芦田惠之助(教員)らによって提唱された。

・第二次世界大戦前頃、政府は「貧乏なことをわからせてはいけない」「社会の仕組みを教えてはいけない」などとして生活綴り方運動を弾圧。

・戦後、国分一太郎、無着成恭らによって「生活つづり方」復活。

・「同和」教育が始まり、もうすでに実践されていた「生活綴り方」に学ぶことが多かった。(特に子どもを生活者としてみるということや、くらしの中から生き方などを学ぶということなど……)

・「同和」教育がすすむにつれ「生活綴り方」と「同和教育」を切り結んだ実践に取り組む人達があらわれ、生活の中でも特に「差別の現実に深く学ぶ」「具体的な子どもの事実、生活の事実(親も含む)そこからすべての教育を考える」ということを命題にし、今に至っている。

.※「生活つづり方」と表す場合、「生活つづり方」と「人権同和教育」を切り結んだものを言う。

3. 現在、子どもはどう見られているのか(特におとなや教師に)

・無気力、無関心、無感動(3無主義?)

・物事に関わる意欲性、積極性、能動性、持続性がなくなってきた。

・自己中心、エゴイズム……で人の気持ちなどを推しはかってみることをしない。

・キラキラした文化、風俗習慣の変化、人々の価値観の変化などで思考、感情、美意識などの面で類型化、画一化、平均化が見られる。

・学ぶことをめんどうがる。逃避する傾向。

などなどの子ども認識が広まっていないか?確かに平均的には当てはまる傾向がある。しかし そこで止まってないか?

◎「おとな・教師」と子どもの距離が広がっていくのでは?

自分たちをそんなふうに見る「おとな・教師」を信頼しなくなる。(子どもの事実が見えなくなる)

※子どもの心の中に痛いこと、恥ずかしいこと、悲しいこと……を知っていなければ、その子どもの先生とは言えないのではないか(その現実がどうすることもできないことであっても)(資料3)

4.「生活つづり方」を実践して私が学んだこと(自分なりに…)

・子どもの思いやくらしの事実を知ることで自分のいたらなさ、あさはかさ、傲慢さ…等に気づき、自己変革ができた(少しずつ)

・一人一人の教育の課題、クラスの教育の課題が見え始めた。(資料4)

・子どもとの距離が近くなった(本音で語り合えば、何か見えてくるものがある)

・子どもがあったこと、したことをありのままに書くことで子どもにまつわる様々なことが「実感」としてわかる。

・子どものことを親や校内研修等で話す時、教師の見た目や想像でものを言うのではなく、子どもの事実を話せてよかった。

・推考させる時に、思い出し直しをするが、そのままにしていたのでは見過ごしていたりすることに気付く、または自分や周りの人を再発見するなど、推考が自力カウンセリングの役目をしていることがよかった。

・あれやこれやと頭の中がゴチャゴチャしている時に、順序よく書くことで頭の整理の一助となっていることに気づいた。

・口ではなかなか言えないことでも書くことで、(そのことが繰り返されるうちに)皆の前でも言えたりすると、本人も、そして周りも解放されていくように思う。〈資料5〉

・友達の綴りを読み合うことで深いところで知り合い、仲間意識が強くなった。また、たくさんの日常を知ることで、人間のこと、社会のしくみなどの学習が深まって行く。(一人の世界は狭い)

5.「生活つづり方」に取り組む上で大切なこと。

①したこと、あったことを「どう書くか」(見た、聞いた、した、あった +色、音、動き、感じたこと、心の言葉…etc.

②生活の中の「どのひとこまを切りとって」つづるのか?「どこで立ち止まるのか?」……そこに意識が向く。

・書かせる側は「これを書いて欲しい」という願いを1人1人にもっているか?(目の前の課題~最終的な課題)

・手伝い(労働?)と家族のこと(確かに大事なことではあるが….)を書けば、人権作文か。日常の中にはもっといろいろなことがある。また、労働の何を書くのか。家族の何を書くのか!(特に「かけはし」編集の目的の一つは啓発であることを踏まえて…)

・「あなたにとって大切なこと」「ねうちのあること」「心につっかえていること」を書きなさい、と言っても「具体的」に教えなければならない。

・社会認識、自然認識……が育っているのか?

③誰に何を伝えるのか?

・伝えたいこと、伝えたい相手がいて、初めて子どもは書こうと思う。<信頼関係>

─大人や友達への気遣いで書かないことも……(ことばを秘める)─

・どう書けば伝わるのか →まずは展開的過去形.で。過去のことを「…した」「…でした」順序良く。

・コメントも啓発(読者の「概念」崩し)を意識して書く。⇒読めばわかることは書かない。

④共有する。

・「つづり」を読み合い共有することで、理解し合える。(より深いつながり)

・いろいろな人、いろいろな暮らし、目に見えない部分…を知ることで、解放される。又、認識が深まる。(既成「概念」をくだく.「常識」を見直す.「視野」が広がる.)

6具体的な指導

・毎日くらしているから、毎日書く。<3行でも…>

それをネタにして、一週間に1回程、少しくわしく書く。大切なことは赤ペンを入れてさらにくわしくする。

・教師は、子どものつづりを読む時に、「どんなくらしをしているかな?」だけでなく、「ある物.事をどんなふうに認識してるのかな?」「自分や親…をどうとらえているか」などという視点が必要。

・いろんな綴りを毎日毎日1つ.2つ読んでやる。(詩でもよい)─関心が関心を呼ぶ─

・書くことに抵抗がある子どもには・・・(低学年では特に……)

〇おしゃべりができるようにする(話しやすい先生、話せる友だち…)

〇絵を画かせ、話と結びつける。(生活画がよい)

〇子どもの話を教師が口頭詩や文にしてやり、読んでやる。

〇絵日記指導(習ってない字やわからない字は・で書かせる)

〇文字や文がいやなものにはならないように、スケッチ作文をしたり手紙を書かせたり、吹き出しを書いたり…(これは、国語科の中でもできるのでは?)

・ひとまとまりの文章を書くことは(総合的な力)+(根気)が必要なのでいろいろな方法(声かけ、赤ペン、コメント紹介……)で励ますことが必要。

.※「つづらせる」作業は教師にとっても、面倒な根気のいる仕事かもしれませんが、超多忙な中にあって「子どもと向き合う」「子どもと心が通じ合う」…という「教育の原点」に浸れる一時でもあると思います。教師を目指していた頃を思い出して、「つづり」で子どもと、また子どもと関係ある人と深くつながる喜びを感じていただけると嬉しいです。

<資料1>

「くらしをひらく」「からだをひらく」「ことばをひらく」とは?       ※S君(4年生)の例「家がはずかしい」

◎最初に書いた日記

「父も母もガンバル、自分もガンバル、みんなガンバル……カゾクの中で一番好きなのは母さん、父さん……」

〈教師〉家庭訪問で垣間見る家庭の状況からして、こういう表現をすることで何かに抵抗しているのではないかと感じた。

〈教師〉「何か家のことで心配なことはないかねえ」と問うた。「ぼく…家のことを言うのははずかしい」と言った。

◎次に書いたもの

「母親の病気、兄の高校退学、暴力、父親の酒乱などを」を説明的に書いた。

〈教師〉「お父さん(し尿処理関係の仕事)がそんなに酒を飲むのはどうしてだと思う?」と問うた。

◎その次に書いたもの

「月に2回、先祖がおりてきて誰かにとりつく。お父さんにとりついたら酒を沢山飲むとお母さんが言った」と書いた。

しばらく、それに関して綴らない。

◎その次は、自分からすすんで腹を立てて書いてくる。

「近所の人達から差別されとる。となり近所の人たちがぼくの家のことをへんに話していた……」を書く。

〈教師〉「何でもいい、家族のことで大事だと思うことを書いて」

◎「父の仕事とそれを手伝う兄のこと。将来、自分も手伝う。お父さんの仕事を見ていたら、ぼくもあとつぎをしたいと思ったこと。病気の母を心配して手助けをする本人のことなど」

<資料2>

第一期 「生活綴り方」が始まる前の〝作文〟

『チリもつもれば』(小3)

チリのような小さい物でもつもったら、しまいには高い山のようになります。それと同じように、少しのお金でもためておけばたくさんのお金になるものであります。ですから私たちはこの事を忘れないようにして、しまつをせねばなりません。

第二期 「生活綴り方」が始まってからのギリギリの境遇(主に外的現実)を綴った〝つづり〟(無着成恭『やまびこ学校』)

『田』(中学)

私の家には田んぼがない。米は全部配給だ。だから、米の配給日の10日ぐらい前から、米をうける銭のことでいつも父と母がごたごたけんかをするのだ。昨日も朝とても早く父と母が言い合いをしているので目が覚めた。

母は「米はまた5000円ちかくにあがるって言うでないか」と言っていた。それに父が「こうだから田をこしらえねばならんと言うとる」と言った。昨日はそれで終わったが、私が寝てる間にもっともっと言い合いしたにちがいない。いつも「田こしらえねば」というところで、けんかは終わるのだ。

田だ。田さえあれば、自分で食うだけ米をとるのだから、とった金はたまると思う。父は葉たばこの収入で堤を作って田にすると言っていた。私も田をつくるのだ。

第三期  生活のギリギリのところ、そこから出てくるギリギリの感情(主に内的現実)を綴った〝つづり〟

『先生ねむたい』(小4)

朝、先生の顔を見て「ゆ、う、べ、お、と、う、さ、ん、と、お、か、あ、さ、ん、が、け、ん、か、し、た」

と大きな口をあけて声を出さずに言った。

先生は小さな声で「あとでね」と言って勉強をはじめた。

みんなは元気いっぱい発表しはじめた。

先生、ゆうべね、「お金がたらん」ゆうてお父さんがお母さんにおこった。ほんでねえ「出て行け」と大きな声でゆうたき、私とお母さんとしょう君とたつひろで出ていったが。

雨がふりよったき みんなカッパきていった。

お母さんのせなかでたつひろはねよった。

しょう君はお母さんの自転車のうしろにのっちょった。

ダンプに水もちらされた。車のライトが光ってまぶしゅうてひかれそうにもなった。

先生、私、ねむたいがおなかもすいちゅうが、私のこときいてや。

<資料3>

「さんかん日」              2年生・女子

あしたはさんかん日だ。わたしはあしたの5じかんめの図工のときのことを、あさ、かんがえました。そのじかんにみんなのお母さんがくる。わたしは、みんなとはいわないけど、わたしのお母さんの左手が小さいから、なんかいわれるときんちょうした。

<資料4>

「暮らしの中から課題をみつける」「三行日記」

※「母のきげんがよかったこと」

学校から帰ると台所で母親が鼻歌を歌いながら、夕ご飯のおかずを作っていた。

(ごきげんだなあ、何かあったと?)と思っていたら、ばあちゃんが会社の飲み会でいないんだった。

課題⇒家族(嫁、姑、父)の問題。

※「K君のちん毛をのぞいて男子がさわいでいた」

昼休み、S君がK君のパンツをのぞいて「ちん毛が長~」と言って、他の男子に言ったので、その男子ものぞきに来た。注意したけど止めれなかったので、つづりに書くことにした。課題⇒発達障がい者(K君)のおかれている状況、障がい児、者の問題

※「生活費が引き出しに入っていない」

(父の)給料日が過ぎているのに、いつもの引き出しにお金が入っていない。

それを父に聞けないで、あーだ、こうだとグチる母。 課題⇒家族を支える経済のこと。

※「阿蘇広報にのっていたこと」

学校から帰って台所のテーブルの上を見たら「阿蘇広報」があった。その中に「解放子ども会」の太鼓の活動が写真入りでのっていて、それを見つけた母が大慌てして「あんた、もう少し後ろにかくれとけばよかったとに……」と言われた。

課題⇒出身をかくしている母のあわてぶりを見て、とまどう子ども……部落問題

※「じいちゃんとあぜの草取りに行った」

じいちゃんがあぜに植えてあるチューリップを「こぎゃんとば植えて。あぜには合わん。税金ばムダ使いするな」と言ったのでびっくりした。 課題⇒自然との共生、自然認識。

※「想像していやになった」

テレビを見ていて、ふと(もし、ここに出ている芸能人が住所とかで部落とわかったら、どうなるんだろう)と思ったら、いろんなことが想像されていやになった。想像することで夢がこわれるのはこわいな。 課題⇒部落問題。

※「職員室の怪しい視線」

今日、水泳のとき先生にサイフを預けたので、放課後、教室にいる先生に「サイフを返して」と言ったら「職員室の机の中から取ってきて」と言われたので行った。行く途中、職員室の先生たちの視線が集中するだろうと不安になった。不安は的中した。先生のぼくを見る目つきがいやだった。課題⇒大人や先生など、ものを言いにくい人にも言っていく。大人と子どもの〝乖離〟

※「自分で洗たくをすることにした」

今日、母が洗たくしようとして洗ざいを入れたのに出くわしたので「合成洗剤使わんごつしてよ」と言ったら、母が怒って「人にしてもらいよって何ちゅう口のきき方」と言ったので「明日から自分でする」と言った。課題⇒地球環境の問題。

 

●阿蘇市人権・同和教育学校職員課題別研修会「共生」の教育
~夢屋の歴史とともに平成(の主に福祉)を振り返る~
2019. 7/26「夢屋」代表 宮本誠一

1.はじめに

夢屋は1995年(平成6年)に起工し、パン作業を7月に開始、翌1996年4月に全面完成し、当時阿蘇郡内では初の民間の無認可作業所として開所、今年で25年目を迎えます。平成が終り、元号も「令和」となりました。当然ですが「夢屋」も時代の変遷の中で、「法」やそれに伴う様々な社会のニーズの影響を受けながら歩んできました。そこで、今回はそれらを相互に見ることで、これまでの「福祉」の流れをつかみながら、今後の課題を考えていけたらと思います。

2.時代(法やそれに関連する制度や動き、大きな出来事など)の流れに沿って夢屋の歩みを見ていく。

 <新たな法整備と土台作り>

平成元年(1989) 子どもの権利条約採択

平成2年(1990) 八法改正

平成3年(1991) 家庭奉仕員を「ヘルパー」改称

平成4年(1992) 新長期計画

平成5年(1993) 障害者基本法施行

<福祉を取り巻く環境づくり.その1緩和>

平成6年(1994) 子どもの権利条約批准

平成7年(1995) 八法改正

平成8年(1996)「ライ予防法」廃止

平成9年(1997)障害者雇用促進法改正

(知的障がい者の雇用義務付け)

平成10年(1998) NPO法制定

(行政によるコーディネートから個人契約へ)

<福祉を取り巻く環境づくり・その2規制>

平成11年(1999)労働者派遣法

(派遣事業の原則自由)

平成12年(2000)応能負担から応益負担へ切り替え

平成13年(2001) DV防止法

平成14年(2002)『同和対策事業』完全終了

平成15年(2003)支援費制度

(在宅サービス重視、地方自治体移譲、民間介入)

<浸透に対する支援体制>

平成16(2004) 発達障害者支援法

平成17年(2005) 自立支援法(1割負担)

平成18年(2006) 特殊学級が「特別支援」学級へ

平成19年(2007) 消えた「年金問題」

平成20年(2008) 後期高齢者医療制度

<災害や困窮への救済>

平成21年(2009) ハンセン病問題基本法

平成22年(2010) 社会保険庁廃止し、日本年金機構構発足

平成23年(2011) 東日本大震災。障害者虐待防止法

平成24年(2012) 障害者総合支援法(自立支援法改正)

平成25年(2013) 障害者権利条約を批准

生活困窮者自立支援法

<深まる分断と混沌>

平成26年(2014) 過労死等防止対策推進法

平成27(2015) 介護保険法改正

特老入所条件が「要介護1または2から3以上に」

平成28年(2016) 熊本地震と相模原事件

平成29年(2017) トランプ大統領就任

小田原ジャンパー事件

平成30年(2018) 行政、省庁の障害者雇用率「水増増し」発覚

平成31年(2019) 障害者基本法施行

<夢屋関係の流れ>

平成元年(1989)初任者研修制度スタート(元年小学、2年中学、3年高校)

平成2年(1990)宮本、4度目の教員採用試験で合格し、菊池市の戸崎小学校へ赴任。

平成5年(1993)宮本、旧阿蘇町立の宮地小学校へ赴任し、青年Tさんと出会う。

平成6年(19994)宮本がTさんの『進路を考える会』に参加し始めながら、当事者者だけでなく家族の置かれた厳しい状況を知る。Tさんが阿蘇農業高校の特別聴講生として卒業。

平成7年(1995)4月宮本が小学校教員を退職し、「夢屋」開所へ向け、Tさんの自宅一階を改装し始める。7月にパンづくりと販売を開始。

平成7(19996)4月小規模作業所「夢屋」として正式に開所。

平成9年(1997)安田火災記念財団、新日本友の会、ヤマト福祉財団、NHK・わかば基金などから助成を受ける。

平成10年(19998)2月第1回「くまもとやさしいまちづくり賞」受賞。

平成11年(1999)5月Tさんの父親が交通事故死。二週間後、Tさん本人が、入所していた施設2階から飛び降り腰椎粉砕折。2ヶ月半後奇跡的に下肢機能が回復し退院。

平成12年(2000)2月Hさん、5月Tさんが心不全のため死去。

平成13年(2001)4月~11月一の宮町在住の難病者の外出支援。

平成14年(2002)1月~12月「夢屋ウィズ・ユー・デイ」を実施。

平成15年(2003)8月第4回「游人の日」で自立を目指す障害者を描いた記録映画『障害者イズム』上映。

平成16年(2006)山田小学校へ、週1回、のべ35時間の総合的学習として授業参画。

平成17年(2005)10月第6回「游人の日」ピアニスト豊田隆博さんのコンサートを「野菜ty」で開催。

平成18年(2006)6月特定非営利活動法人「夢屋プラネットワークス」の認可を得、「地域活動支援センターⅢ型」となる。10月阿蘇市から「地域活動支援センター」の委託。

平成19年(2007)7月阿蘇市学校人県・同和教育部会課題別研修会に「夢屋」全員で講師として参加

平成20年(2008)5月蔵原(竹原幸範さんから提供)へ移転。8月阿蘇市内の中学生(3名)がワークキャンプの一環で、「夢屋」で福祉体験。内牧小、阿蘇北小等からも体験学習。

平成21年(2009)12月Nさんが県ハートウィーク主催「心の輪を広げる体験作文」で優秀賞。

平成22年(2010)6月熊本県人教「進路保障(就労)研修会」(大津町)にスタッフとメンバーが講師として参加。7月 熊本大学教育学部特別支援教育学科の大学院生にメンバーが活動報告。11月蔵原のお薬師様の落ち葉掃きを週一回行い、近所(蔵原地区)の方々からお礼の言葉を頂戴し、勇気づけられる。

平成23年(2011)10月聴覚障がいノメンバーNさんが中通小学校の人権学習の授業に招かれ、児童、職員の皆さんに講話。

平成24年(2012)2月熊本大学大学院教育学研究科修士課程の学生9名と教授1名が学習を兼ねた交流。

平成25年(2013)Tさんの今後を本人、市職員、相談支援センター長、家族、宮本で話し合う。

平成26年(2014)9月熊本学園から学生35名が災害要援護者の減災型地域。社会リーダー学習のため訪問。代表宮本が『夢屋』の成り立ちを話した後、Sさんが盲導犬を連れて参加。

平成27年(2015)4月Yさんが小国支援学校卒業後、メンバーに。

平成28年(2016)4月地区民生委員と連携し、独居高齢者を御一人、車中で一晩保護。メンバー、スタッフとも早急に連絡をとり全員無事を確認する。『夢屋だより』で特集号発行。

平成29年(2017)6月韓国京畿道安城市のハンギル学校の職員、関係者(15名)の訪問。ハングルを全員で学習し、親睦深める。

平成30年(2018)1月熊本大学の学生(受講生184人)に「現代教育について考えるB」をテーマにゲスト講話。

平成31年(2019)7月阿蘇市人権・同和教育学校職員課題別研修会に「夢屋」が講師として招かれる(13年連続)

3.まとめ

法律は、ある意味で時代の下地をつくっていきます。例えば、平成元年(1989)文部省(現文科省)が学習指導要領を改訂し、クラブ活動に「奉仕的活動」を盛り込みました。これは翌1990年の社会福祉事業法(現社会福祉法)の改正により社会福祉協議会が法制化され、明確な在宅福祉サービス推進が基本理念として規定されていくのですが、少子高齢化を見据えた市町村への福祉サービス一元化のための人材育成の第一歩ともとれます。また介護保険法制定と同時に教員免許特例法により小中学校教員免許の取得に際し介護体験の義務付け(1997)がされたり、社会福祉制度の措置制度から契約制度への転化とともに民間企業など多様なサービス提供主体の参入(2000)がなされていくのです。
夢屋もこのような法の流れを受けとめながらやってきました。ここで紹介はしませんが、この阿蘇市でも保護者や当事者の方々が新しい「居場所」づくりをを試みてこられたことのいくつかを知っています。そんな中、25年目を迎えれたのは、むしろこの「法」にいい意味で振り回されない距離を意識的にとってきたからでは、と最近特に思います。
「法」はあくまで「言葉」に過ぎません。だから簡単に言えば順守する人もいれば破る人もいます。またどんな素晴らしい理念もそこに施行される側の「心」や「精神」と通じる(反映される)面がなければ外から動かされるだけで、「内発的」なものは生まれません。
25年前、作業所づくりを始めた当初、行政の定めた人数や規定に何とか達しようと作業所の大工仕事と同時に要望書の作成や署名集め、メンバー探しなどであがいていたとき、ふと、いつの間にか本末転倒している自分たちに気づきました。本来、たった一人の重度の障がい者の「居場所つくり」をきっかけに始めたものが、いつのまにか、当事者たちよりも、その枠組みの方にばかり目が向くようになっていたのではないかと気づいたのです。
そこで、まず今ある足元を見つめ、日々の活動をより大事にしようということになりました。そして今、たとえ少ない人数でも目の前にいる障害者が満足できるものになっていればそれでいいのではないかと肝を括り、それまで頻繁に行っていた情報集めやご挨拶、また交渉を目的とした県庁や役場へ出向くことを辞め、パンづくりと販売にしっかり軸足を定め、取り組むようになったのです。そして今度は、そのパンを購入していただくお客様と作り手(販売者)としての関係で様々な場所へ足を運ばせていただくようになりました。また地域の方々に周知していただくにはまず地域の子どもたちと仲良くなることではないかということで『夢屋ウィズ・ユー・デイ』を開始し、月一度、丸一年続けました。
さてその後、肝心の行政は、これまでお話してきたように2000年を境に福祉自体が民間的手法を取り込むことで「作業所」から「事業所」への流れになっていったのですが、それは皮肉なことに既に夢屋が早々とやってきたことでした。次々と〇〇づくりや〇〇販売などを本格的に始める準備をするかつての作業所仲間を見ながら、どこか不思議な感覚になったのを覚えています。
現在、夢屋は地域活動支援センターⅢ型として運営していますが、これからはむしろ「事業所」からまた再度「作業所」の感覚に戻り、当事者主体で無理せずにやっていけたらと思っているところです。もちろんそれは阿蘇市という行政区の人口や需要を考えてのことでもありますが、むしろだからこそ一人一人とこれまで以上に家庭的な雰囲気の中、お互いの成長を見つめ合いながらやっていければと考えています。地域の皆様、そして今日もこうして講話に呼んで下さった先生方に感謝しつつ、「反差別」と「人権」の視点を見失わず、今できることを精一杯、地道に積み重ねていけたらと思っています。これからもどうか「夢屋」をよろしくお願いいたします。

 

●地域に(赴任して)いる限り、どこかで何らかの形でつながっているということを大事にしていきたい。《母と女性教師の会にて》

2022.3.5 夢屋代表 宮本誠一
1. はじめに
1995年春、当時、阿蘇郡内初めての小規模作業所として今は亡き発達障がい者の青年トオルとその母親、私、そして現副代表である竹原の4人で構想を立て、当事者としての活動面、パンづくを中心とした作業面、介護支援面、資金面と各自が分担し、旧一の宮町に産声を上げた夢屋もこの春で27周年になりました。途中、相次ぐメンバーの死、宮地から蔵原への移転(20007)などがあり、現在は登録者13名、通所者5名~7名の中、地域活動支援センター(以後「地活」と表記)Ⅲ型として運営しています。地活は二階建てのシステムでよく説明されます。一階は地域の実情に合わせての創作的活動や生産活動の機会提供や社会との交流促進を目的とする部分、二階はⅠ型、Ⅱ型、Ⅲ型の三つの型に分けられ、Ⅰ型(定員20名)は、障がい者が地域で暮らしていくのに必要な理解や啓発活動、相談支援事業、Ⅱ型(定員15名)が機能訓練や入浴サービス、そしてⅢ型(定員10名)はかつて最も多く点在していた無認可の小規模作業所が移行できるよう設定され、授産作業を行うなど就労継続支援に一番似ている形です。ただ、内実はあくまで障がい者本人が気軽に通える〝居場所づくり〟の面が大きく、規模や財源も小さなものです。

2、やって来始めた教え子の子どもたち。
33歳で退職して始めましたので、今年60歳となりました。当然ですが教え子らも30代後半となり、ここ2,3
年、教え子の子どもが支援学級の児童として体験学習などで来ることも増えました。そんな中に教え子の一人であるミチコさんの甥のワタルさんもやってきたのです。
〇1993年4月~1995年3月
ミチコさんを担任。家庭訪問をする中から家族と親しくなりました。
〇2018年11月
ミチコさんの兄であるタクヤさんの息子ワタルさん(小学4年)と夢屋の体験学習を通じて出会いました。
〇2019年4月~2020年3月
ワタルさんが夢屋に連続でやってき、ミチコさんと苗字も同じであること、顔の輪郭がミチコさんの父のシゲル
さんと似ていることなどから、ミチコさんという親戚がいないか聞いてみました。「あっおばちゃんだ」というこ
とで、話ははずみ、私が五十センチほどの銀色の細い鉄の棒で、火かきのように先が数センチ曲っているものを
持ってきて、「あなたのおじいちゃんがミヤモッちゃんの退職祝いのプレゼントにつくってくれたんだ。当てて
ごらん」それが、手作りの『孫の手』ということから、どんな思いでこれを下さったか、当時のエピソードなど
を交えた話へ移りました。家庭訪問の時はいつでも温かく迎えてくれたことやクラス皆でおじいちゃんが車椅子
工場の見学に行った日のことも話しました。溶接がとてもきれいでとっても腕のいい職人さんだったこと。タイ
ヤをくるくるって回しながらリムの曲がってるとこなんかをすぐに見つけて、付け直したりしていたことなどで
す。すると担任の生が「ワタルさんも工作が上手なんです」と教えてくれ、「そうか。じゃあ、おじいちゃんに似
たんだね」そういう流れの中で、とっておきの印象に残っている話をしました。
おもむろに工場の隅から一台の車椅子を持ってきて、表紙に油染みがぽつぽつ雫のようについたノートを開いて見せてくれました。
鉛筆で中央に車椅子の全体図が描かれ、長さや太さがミリ単位で書き込まれています。各パーツからは線が伸び、その先は細かい文字で注意事項がびっしり埋めつくされていました。
「製作する前に本人からいろいろ聞いてやってはいくんですが、実際に乗ってもらうとやっぱりどこか不具合が起こるんです。例えばこれですが、ほらここ」とわたしから見れば何の問題もなさそうな板の側面を差し、「このネジがね、あの子の場合、ここだとちょうど右回りのとき親指の関節と擦れるらしいんですね。だから今度はちょっと下に」とその位置を説明してくれました。わたしはただただ感心して聞く以外ありませんでした。それからシゲルさんは、少女が出来上がった車椅子を受け取ったときの話をしてくれました。
「納車は先月だったんですが、うれしさのあまりポロポロ涙を流して泣き出したんです。親が泣くことはよくあるんですよ。きっとこれまでのいろんな苦労を思い出したり、これからのこととか考えるんでしょうけど。でも本人が泣くのは初めてでした。こっちも胸が熱くなって」そこでやや声色が変わり「でも、うちの社長なんですがね。卸した後の修理をとても嫌がるんです。元がとれなくなるって。たったネジ一つですよ。あきれますよ」最後にシゲルさんはやるせない思いでこうしめくくったんです。
「わたしが社長なら、この車椅子だって、ただであげてやりたいんですけどね」
校外学習の帰り際、担任の先生が、よかったらこの〝孫の手〟を貸してほしいと申し出られました。ワタルさんの親学級の子たちにも、彼のおじいちゃんの話を知らせてあげたいというのが理由でした。二つ返事で承諾しました。
〇2020年4月~2021年3月
ワタルさんが無事に中学へ入学したことなど、節目節目で動画などを送ってくれていました。竹原さんと祖母の家へシゲルさんのお参りにもいきました。2020年の8月には、家族全員で夢屋へパン作りに招待し、楽しくやりました。ただ、ワタルさんが小学時代と比べ、ほとんどしゃべらなくなっていることが気になっていました。ワタルさんは無事、中2へと進級します。
〇2021.6/17 タクヤさんが夢屋にかなり疲労困憊した様子でやって来ました。(シゲルさんの命日)
〇2021.7/21 事情を聞き、有効な手立てとして熊本県阿蘇市教育委員会と事務所への要望書提出へ。

<入院児童生徒等への教育支援の一層の充実の要望書> 
(1)はじめに
私どもの長男、ワタルを始め、入院児童生徒への一層の教育支援の充実、ならび改善をしていただきたく、以下のように要望します。
(2)これまでの経緯と状況
ワタルは一昨年、地元小から特別支援学級生として地元中へ入学し、先生方のご支援のもと多少の曲折はありながらもそれを乗り越え、楽しく通学していました。ところが今年度、担任が変わり、学校も休みがちになり、理由を聞くと新しい先生との関係がうまくいっておらず、他の生徒からの心ない言葉も増えているとのこと。その都度、学校や担任に連絡してきましたが、なかなか改善されず、次第に家で涙を流したり、母親や家族への暴言、自らの存在を否定する言葉を発したりするようになると自傷行為が頻発し出し、通院していた病院の医師からの勧めもあり、校長、担任、保護者で最終確認の上、6/10に入院となりました。
ところが入院当日以後、担任の先生からは数度電話で簡単に様子を聞くだけで、これからワタルが学校へ戻ってくるためにどんな取り組みをされていくか具体的な説明はなく、病院へ直接本人の様子を見に行ったり、保護者の思いを聞きとろうという姿勢が当初、ほとんど見られませんでした。悩んだ末、6/17、ワタルが小学時代から体験学習などで親しかった「夢屋」さんへ相談に行きました。その後、6/20の病院での初面会後も担任からの連絡はなく、7/19にようやく本人とのリモートでの会話の実施の報告が保護者へありましたが、支援学校と地元中との間でどのような取り組みや連絡がされているか保護者が知る機会はなく、果たして退院後、地元中へ復籍した場合、学校側に入院前と同じ状況にならないための対応がしてもらえるかまだまだ心配な状況です。
(3)要望要項
「学校基本統計」(文部科学省/平成25年5月1日時点の全小・中学校数に占める取り組みの割合)によれば、以下の6項目が、入院により一時転学等をしている児童生徒に対する学校の取り組みとして挙げられています。
①実態把握をする。
②退院後に円滑に学校生活に戻れるよう、他の児童生徒に病気の理解啓発等を行う。
③一時転学時もロッカーや机を残すなど戻ってき来やすい環境配慮に努める。
④一時転学時も心理的な不安などの相談支援を行う。
⑤一時転学先学校と連携し、交流及び共同学習を行う。
⑥退院後、自宅療養が必要となった場合にも学習指導等を行う。
阿蘇市の教育行政、そして先生方の日々のご努力には感謝しておりますが、どうか入院児童生徒の一層の理解と支援のためにも、項目中①と④を保護者を交えた上で早急に進めて頂きたく切に要望する次第です。
(4)おわりに
2007年の学校教育法改正により、「特殊教育」から「特別支援教育」へ転換がはかられ、『障害の種類や程度に応じて』から、「特別支援教育」ではさらに細かな視点として、『一人ひとりの教育的ニーズを把握し』た上で必要適切な指導や支援を「合理的配慮」の下に行うとなっているかと思われます。自立や社会参加へのきめ細かな支援のため『個別支援計画を立て』るともなっており、今回の要望はこれと充分重なるものと考えております。どうかその観点から、児童生徒の未来のため、以上のことを実行下さいますようよろしくお願い申し上げます。

3.まとめ
今もワタルさんは学校へ行ってません。学校は開き直ったか、はては本当にワタルさんのことなど忘れてしまったのか全く動いてくれてません。委員会や事務所は何をしてるんのでしょうか。ほったらかしです。私たちは、保護者と連絡を取り合いながら、今後、ワタルさんにとってどのような形での接し方や言葉かけが必要か、また次の進学に向けてどんな準備をしておくべきかなどを確認しながら、微力ですが協力して行っています。また本人には、せめて一人ではないことを伝えなければと、今も週に一度か二度、メンバーとパンをとどけています。
さて、支援学級の児童生徒はここ数年、どんどん増え続け、私が勤めていた当時と比べれば桁違いです。しかし現実に<差別>は存在します。現にワタルさんは小学6年の学年度末、自分のいる教室の前で、同じ学校の児童からあからさまな差別発言を受けています。来年度の新一年生を連れ、校内を案内する体験入学のとき、先頭を歩いていた児童が、支援学級の廊下を通る際、あからさまな蔑称を使い、そのクラスのことを紹介しているのです。たまたま部屋にいた児童の一人がワタルさんで、彼は怒りをあらわにし、抗議します。
かつてわたしは、ミチコさんのお母さんに、家庭訪問をちょくちょくする理由を訊ねられたことがあります。人権教育のことだけが目的なのかどうかです。私はもちろんそれもありますが、それだけでなく、ここに来ると力がわいてくることをはっきり答えました。お母さんはそれを聞き、嬉しそうに笑顔になられました。児童、そしてその家族とつながるとはどういうことでしょうか。27年前、一人の障がい者のトオルさんとの出会いをきっかけに始めた夢屋。彼は多くの方々の力で地元の小中学を経て、特別聴講生という形で高校まで卒業しました。しかし卒業後の居場所はなく、施設ではいじめられ、お母さんは心中までしようとされました。その当時と比べたとき、状況は変わったと言えるのでしょうか。そのことこそが問われています。
差別により犠牲となったのはトオルさんやワタルさんだけではなく、障がい者すべてであり、ひいてはその家族であり、かれらとかかわる教師や私たちでもあります。また、それは呼び捨てたその子自身にもその行為は必ずかえってくるものであり、その子が手を引く園児たちは、その言葉により差別の空気を、より具体的な「言葉」という手段で伝えられ、同じ過程を今後もまた、歩んでいく可能性があります。
ただここで忘れてはならないのは、蔑称の「言葉」は、けっして行為した児童自身から出たのではなく、その子の置かれた環境、すなわち家庭や地域、学校という中で醸成され、時と場合を無意識に選択しながら外部の<空気の力>によって押し出されてきたものであり、まさしくそのような意味で学校と社会教育両面の根本が問われています。
「地域に(赴任して)いる限り、どこかで何らかの形でつながっているということを大事にしていきたい」
とは、そのことを常に意識に置きながら考え続け、これからも生きていくことを意味しています。

●阿蘇市学校人権・同和教育部課題別研修会「共生」の教育

これまでの自分の生きてきた日々を振り返る~『夢屋だより』の文章から、ふと見えてきたこと~

2021.7.26「夢屋」代表 宮本 誠一

1、はじめに

1995年に開所した夢屋も今年27年目を迎えます。現在、地域活動支援センターとして登録者12名、4名~6名がパン作りや販売、『夢屋だより』発行、地域の小中学校との交流学習や相談事業にも対応しています。

そんな昨年度末の3月、ユウコさんが、突然、〝辞表〟を持ってきました。理由は、これからは家で絵を描いたり、好きなことをしたいとのこと。ネットで辞表の文面の形式を調べたそうで、最後の欄には承認者として私の名前と朱書きで印鑑まで書いてありました。すぐに家族と連絡を取ると、両親も困惑しながらも言い出したら聞かないし、ぜひ夢屋で話し合ってほしいとのこと。ご家族の真意としては、夢屋をつづけてほしいとのことでした。さっそくメンバーやスタッフから様々な考えが出ました。やめた場合のメリットやデメリット、毎日の生活を自分でコントロールして過ごすことができるかなど……。結果、まずは10年を目指すことになり、裕子さんは、『夢屋だより』新緑号(125号)に、1年目から6年目(現在)までの自分の態度や心の変化を書きました(資料1)。自己中だった入所当時のことや2年、3年と徐々に「反抗的」態度がなくなり、仕事にやりがいが生まれてきたこと、そして4、5年で「自分の性格と少しずつ向き合う」ようになり、それが自信と満足感にもなり、「自立」の気持ちも芽生えたことで辞表提出へと至った流れが書いてありました。この文章を書くことで彼女にとっては自分のことを見つめなおすきっかけとなったようで、再び積極的に活動しています。

そこで今回は、過去のひとり一人の『夢屋だより』の印象的な文章や記事を取り上げながら、そこから入所以来の自分自身や自分から見た他のメンバーのことをふりかえり、そこから垣間見える「共生」とは何か、そしてその在り方を考えてみたいと思います。

2、それぞれのふりかえり。

  • チトセさんのふりかえり

①過去の『おたより』の文章(資料2)

②ふりかえって。

⑴自分について

正直、このお題を提案されたとき、情けないことに「あまり変化がない」と自分の良くなったことが一番思いつきませんでした(苦笑)。一つだけ「入所当時よりは大きく変われたかな?」と思えることは人づきあいで「まず信じてみる」という気持ちです。入所前の私は、人間不信で、出会う人すべて頭ごなしに「どうせこん人も差別する…」と決めつけていたのですが、夢屋の人たちや周囲の温かい方々と関わって過ごしているうちに差別していたのは自分だったと反省し、まずは信じてみることが大事だと思えるようになりました。

⑵ミサキさんについて

11年前、初めて会ったときは緊張して何一つ自分から進んでできる人じゃなかったミサキさん。今ではしっかり後輩の指導員! 背後でジッ!と監視しています(笑)。私がパン作りの中で一番得意としていたバタートップの形成も一番上手になり、若干先輩を焦らせています。

⑶ユウコさんについて

入所当時は黙々とおとなしくて会話がまったくなかったのですが、しばらく一緒に過ごして慣れてくると、本来こんなこともある人だったんだ! というくらい明るい人で初めて会う外国人相手でも臆することなく笑顔で挨拶していたり、小学校の体験学習などでも積極的に雰囲気づくりをしてくれて、コミュニケーションが苦手な私はかなり助けられています。

⑷ヒロヤスさんについて

最初はただ椅子に座っているだけのことも多かったのですが、彼の場合、まずはジッ!としっかり見て学んでいました。作業をいくつか覚えていくと余裕がでてきたのか私の作業準備の一歩先を予想して、サッと手助けしてくれることもあります。作業中だけじゃなく、常に気配りができるようになっていつも支えられています。

⑸シモムラさんについて

最初に出会ったのは15年前、山田小で行われた授業でした。毎年、授業や研修会で、不便に感じる地域での暮らし方を一生懸命、しかも的確に発言されています。一緒に勉強してきて、なかなか伝えたいことの半分くらいしかしゃべれない自分は、いつも尊敬のまなざしで見つめています。最初は緊張してほとんどおしゃべりできませんでしたが、毎年、一緒に参加するたびに満面の笑顔で楽しく接して下さって、最近は冗談も交え、気軽に話せるようになってきました。

⑹タケハラさんについて

私が「旧夢屋」に通っていた頃は、竹原さんもまだ教師をされていたので、なかなか会う機会がなくて勝手に感じていた外見のイメージは、いつも背筋がスラッとされていて、ちょっと厳しい先生かな? と緊張し、あまりお話ができませんでした。教師を退職されて、夢屋も新しい場所に移転し、ご自宅が近くなったら、ほぼ毎日会えるようになりました。毎週金曜日のお昼ご飯におかずを一品、作って下さるようになって、10年以上になります。今では、「今日のメニューは何かな…」と一番楽しみです。

畑仕事や趣味、考え方の姿勢を学ぶうちに、実は周囲に対して、こんなにも慈愛に満ちた方だったんだな…と、ガラッとイメージが変わりました。最近は、失礼ながら勝手に親友と思わせて頂いて、色々と家庭の悩みや愚痴まで聞いて貰ったり、体調を崩した時は、わざわざ私の分だけ別メニューの一品を作って癒して下さいます。

⑺ミヤモトさんについて

ご縁があって早くも18年が過ぎ、出会ったばかりのころは、今よりお若くバリバリ体力があったので、たまに「こうした方が良い!」など自分の意見を押し付けるとこもある人だなとちょっと怖く思ってましたが、年齢とともにかなり柔らかい人柄になられたいように感じることが多くなりました。神経質すぐてつかれやすい私に「だいたいでよかが」「あんまり無理しなすなよ」と言ってくれ、いい意味でときには適当でいいことも学びました。

⑻夢屋以外の人について

「夢屋」に通い始めて「私の顔がやわらかくなって話しやすい」と言ってもらえるほど、隣近所の方々や入所当時はほとんどお話ししたりなどなかったお客様が、今では実の娘や孫のように、体調を心配して下さったり、おやつを差し入れて下さったり、昔話を楽しくしてくださったりします。また「夢屋」での経験が糧になり、地域の集会なので、夢屋でのことを知っている会長さんが「あなたならできる!」信用してくれて、最初のころよりいろいろな仕事を任せてもらえるようになりました

  • ミサキさんのふりかえり

①過去の『おたより』の文章(資料3)

②ふりかえって。

⑴自分について

パンづくりや拭き掃除だけでなく、畑仕事などをがんばるようになりました。昼ごはんのとき「おいしいです」の一言を言えるようになりました。

⑵チトセさんについて

パン作りや他の仕事もとても丁寧です。コーヒーをテーブルに置くと、「ありがとう」を言ってくれます。

⑶ユウコさんについて

昼ごはんづくりで、野菜切りが上手になりました。感謝カードにたくさんの国旗が書けます。

⑷ヒロヤスさんについて

感謝カードの色塗りが早くなりました。

⑸シモムラさんについて

夢屋の帰り、パンの配達が終わった後、盲導犬を持っている下村さん家に『夢屋だより』を届けました。

届けた後、握手をしました。握手は、とても嬉しかったです。

⑹タケハラさんについて

阿蘇神社の近くにあったころの夢屋は見たことなかったです。写真で、昔の夢屋を見ました。新しい夢屋ができた後、竹原さんは大喜びでした。私が常盤学園を卒業してから来始めた夢屋は、新しかったです。夢屋に来てからすぐ、竹原さんと会うことができて楽しくて、よく笑いました。新しい夢屋は、仕事がしやすかったです。そして、竹原さんの一品は、いつも美味しいです。

⑺ミヤモトさんについて

メロンパンづくりが上手になりました。玉ねぎ干しも上手になりました。

⑻夢屋以外のことで

阿蘇市役所で『夢屋だより』をくばるとき、担任だった渡辺光子先生がよろこびます。

家に帰ったら床そうじをし、ふいたあと、家の人がびっくりします。

習字を小学2年生のときからずっとつづけています。

小嶋動物病院と松谷ぶんかどうさんへパンの配達をしにいき、「持ってきました」と言ってわたせます。

  • ユウコさんのふりかえり

①過去の『おたより』の文章(資料1)

②ふりかえって。

⑴自分について

自分で言うのもなんだけど、苦労人だと思う。1年目からやっている食器の後片付けはもちろん、最近では洗濯物を干し、乾いたらたたんで片づけることもすすんでやっている。家でも家事をまかされ(当たり前だけど)片付けや洗濯物たたみなどをしている。専業主婦の道まっしぐらでしょうね。

⑵チトセさんについて

あと2年したら勤続20年のベテラン。パン作りにかけてはプロ並みで専門学校で学んだかのようですね。兄妹がいることもあってか、夢屋での面倒見がよく、しっかり者です。

⑶ミサキさんについて

パン作りに人生と情熱をかけている人です。天職だと誇りに思っているようです。常盤学園で学んだことがパン作りに生かされ、そのおかげか物覚えやのみ込みがとてもいいです。めったに怒らない陽気な人ですね。

⑷ヒロヤスさんについて

夢屋で働き始めたころはあどけなさが残っている印象でしたが、自分から積極的にパン作りを始め、片付け掃除をします。また他の人にいつもゆずってくれるジェントルマンみたいです。おかげで夢屋の雰囲気が明るく楽しくなってます。

⑸シモムラさんについて

私は犬が苦手(怖い)だったけど、盲導犬のお陰で、克服出来ました。

時々、『夢屋だより』を届けるとき、いつも下村さんは握手をして下さって、とてもありがたいです。

⑹タケハラさんについて

私にとっては夢屋のご意見番のような存在ですね。問題児の私が宮本さんの言うことを聞かないときでも竹原さんのアドバイスは受け入れました。そして、毎週、金曜日の昼ごはんで竹原さんが一品を持ってきてくれます。とてもうれしいです。さらに竹原さんからゴミ出しをたのまれたときは、私からすすんでゴミ出しに行ってます。いつも「ありがとう」と言われるのでうれしいです。

⑺ミヤモトさんについて

本当に父のような人です(大先生のような)。パン作りをはじめとするすべてのことの指導を私にして下さることはありがたいです。最近はよくやさしくしてくれます。これからは体を大事にしてください。

⑻夢屋以外の人について

最近では、私が仕事から家路へ向かうとき、通りすがりの小学生が私に挨拶をしてくれます。今までは無視されたり、ひどいときは会った瞬間、逃げられたりもしたけど、今は大丈夫。私の雰囲気が変わったのかな。

家でお客さんがきたとき、私に対して「仕事は頑張っとるね?」とよく聞かれます。私の親戚もパンを注文して食べてくれています。嬉しいことに「とてもおいしいよ」と言ってくれます。でも、家で一番変わったのはわがままを言わなくなったことです。

  • ヒロヤスさんのふりかえり

①過去の『おたより』の文章(資料4)

②ふりかえって。

⑴自分について

パンまるめがじょうずになりました。家でもちゃわんをあらうようになりました。ハキハキあいさつするようになりました。

⑵チトセさんについて

パンづくりをがんばってます。

⑶ミサキさんについて

食パンのケースぬりがとてもていねいですごいです。草とりをがんばってます。

⑷ユウコさんについて

ぬりえがじょうずです。えがおふえて、こわくなくなりました。

⑸シモムラさんについて

ぼくのいえもピロをかってるので、もうどうけんををみるのはたのしいです。

⑹タケハラさんについて

あさはなしかけてくれます。キャベツのりょうりがうまいです。

⑺ミヤモトさんについて

おひるごはんがおいしいです。いつもやさしい。いっしょにいてたのしいです。しょうらんざんにのぼります。

⑻夢屋以外の人について

ぼくのつくったパンを、にいちゃんがおいしいといってよろこんでいます。いえでちゃわんをあらっています。

  • シモムラさんのふりかえり

①過去の『おたより』の文章(資料5)

⑴自分について

盲導犬を受ける前まで外に出たくても出れませんでしたが、盲導犬がいることでやはり全然違います。

⑵盲導犬の理解やバリアフリーについて

盲導犬を持つための試験も随分、柔軟になりました。また私が盲導犬を持つことで近所の人が最初、わざわざついてきてくれたり、声をかけてくれたりし、盲導犬がいたからこそ人の温かさやありがたみが余計にわかるようになりました。バリフリーについては、正直、道幅や点字ブロック、凹凸など、私自身が市役所などに働きかけてつけてもらったものもありますが、なかなか改善されないのが現実です。側溝などガクッとなったり、つまづいたりし、危険な目にあうこともしばしばです。

⑶暮らしについて

盲導犬はしゃべりはしないけど、こちらから話しかけるとある程度、理解はしてくれます。そのことが暮らしに潤いをもたらしてくれますし、私自身を前向きにさせてくれ、プラス思考に働いていると思います。

⑷夢屋について

とにかく出会ったことは大きかったです。メンバーの方がどのように暮らされているか話を聞いたり、こちらも話したりする中で、つながりと世界が広がりました。もしも自分だけの生活だったら、盲導犬がいたものの、きっと殻に閉じこもりがちだったと思います。

  • タケハラさんのふりかえり

二人の仲間(タケシさんと日野さん)を失って、もう20年余りになります。数日前、タケシさんのお墓に花を飾ってきましたが、お墓に向かって手を合わせるものの、どうもタケシさんがこのお墓にじっとしているとは思えないのです。いつも宮地から自転車でひょっこり私の家に入ってきて、当時と同じように新聞を読んで質問をいくつかし、また行きたいところへ行ってしまう…。どうしてもその姿が頭から消えず(今日はどこをウロウロしてるだろうか)(大好きな誰かさんのとこへ行ってなにかまた言っているのかもしれない…。)つまりタケシさんは私の中で今も生きているのです。70歳を越えた今日この頃、物忘れもひどくなりましたが、タケシさんは私の中で生きてるから忘れようがないんだと、最近気が付きました(よかった・笑)

  • ミヤモトさんのふりかえり

現在、夢屋の利用者は6名と言いましたが、それぞれに障害者の置かれた状況は厳しいものがあります。総括すると一応に社会的弱者の立場にあることが、ここぞというときに意志の決断を下すことを阻んでいるように思えます。つまりこの社会的弱者の位置が改善されない限り、彼らに、あるいはその保護者に一方的に社会参加への要求をうながしても難しいものがあるでしょう。自己の解放も社会参加も同時になされるものであるとは思いますが、現在の差別状況はあまりに重いものがあります。その象徴的事件がついに熊本県内の知的障害者授産施設でおこりました。通所バス、さらには更衣室の中で男性職員、あるいは元施設関係者が性的暴行を加えていたというものです。事実関係については今は充分な回答は得られておらず、理事らが辞職することで責任回避している段階のようです。なぜここに差別があるかは一目瞭然でしょう。この事件の中身そのものもそうですが、それへの対処のやり方が、もしこれが普通学校のスクールバスで、暴行を受けたのが健常者の女子児童や生徒だったら、事態はこれだけですんだかということです。被害者がわざわざ刑事告訴しなくとも、「犯罪」として捜査も世論も動くはずです。のらりくらりとした対応や態度を見ていると障害者、とくに知的障害者はどこかでこのようなことをされても仕方ない存在と思われているのではと勘繰ってしまいます。しかし、ここに力強い知らせも届きました。通所者の集団退所による抗議です。保護者らにとって施設退所は、とくにその子が重度になればなるほど、また保護者が高齢になればなかなかできないことです。社会的弱者である不安からそのような思いきった行為は、どんなに不合理なことが起きても思いとどまらざるをえないのが現状です。しかし今回この施設の保護者会は勇気ある団結と決断を示してくれたように思います。今後は自主運営による小規模作業所を設立し、運営していくとのこと。やはり原点は小規模作業所にあるのかなとなんだか嬉しくなってきました。これからは何らかの方法で夢屋も応援し、つながっていけたらと考えています。障害者が『ひとりの人間』として対等にみられる日はまだまだ遠いと感じる、1998年、今年もあわただしく幕開けしたようです。(1998年新春号より/宮本)