「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『背高背高泡立草』(古川真人著/2020.3文芸春秋版)を読んでみました。

『背高背高泡立草』(古川真人著/2020.3文芸春秋版)を読んでみました。

 

過去、芥川賞作品ぐらいはと、発表される号の『文芸春秋』を買い読んでいましたが、それさえしなくなり「小説」から遠く離れてしまっていました。そうやってとっといた分がいく作かあり、この休みに読んでみようかと手に取りました。なぜこの作品から始めたかというとこの草、つまり背高泡立草(セイタカアワダチソウ)に私もほとほと苦しめられているからです。3年前に母が他界し、父は介護老人保健施設へ。つまり現在住んでいる場所から車で2時間半かけ空き家となった実家の草刈り兼風通しにいかねばならなくなりました。もちろんその折は両親の実家へも挨拶へ、かつ納骨堂へのお参りもします。そんなこんなでこの作品のテーマが非常に近いものになり読んでみたくなったのでした。

いえいえ、実はですね、小説にもう一度手をだそうと思ったきっかけは入沢康夫の『詩の構造についての覚書』(ちくま学芸文庫)と埴谷雄高『幻視の詩学』(思潮社)を読んだのが本当の理由です。

入沢がブランショの『文学空間』から引用した、詩の言語が現実を形象化するような言語でなく、己のイマージュ、つまり言語そのもののイマージュになるとし、<出来事の現実>にでなくそれらの影に向けられる言語であると述べている箇所にいたく納得し、ならば「事実」と思い込んでいる現実世界も一つの比喩であって、ただ違うのは影ではなく実像(日向)に向けられた言語であろうという発想が生まれ、埴谷はランボウ、ポー、ブレーク、ボードレール、ブルトンとわたりながら「不可能性の文学」としての在り方について『論理と詩の結合』の視点から<現実>と<非現実>の境界の構造を紐解いてくれたのでした。そこである時期から、小説世界がうさん臭く思えてくるのは、『現実世界』と一応称されている「事実」なる<比喩世界>に私の脳が浸り始めた結果、影の<比喩世界>が当然のごとく萎縮、もしくは押しやられたことに起因するのではないかという疑問がわき、ならばもう一度、まずは手始めに興味を持つ小説に関しては読んでみることも、その萎縮を緩和するためにまんざら無駄ではないかもしれないと思い直してみたのです。

前置きが長くなりましたが、そこでいよいよ『背高泡立草』の感想なのですが、土地と海にまつわる歴史性を帯びた〝サーガ〟としての地へ草刈りのために集まる従兄弟姉妹とそこへ挿入される過去の物語も、つまるところ<背高泡立草>を始めとする雑草群の<比喩>ということになるでしょうか。そこはまあいいというか、なかなかの筆力で描かれているのですが、私が終始不満がぬぐえなかったのは本来この作品の大きなテーマであるはずの、姉妹の一人が発する疑問『だれも使わない空き家や納屋の草刈りをする理由はなにか』という労働の根幹にもかかわる原初性に最後まで答えらしきものがぼやけ、薄れてしまった感があった点でした。

それは敷地面積が実際に何坪ほどか、建屋はどれだけか、そこから換算した時の草刈りを終えるのに必要な労力と時間、刈った草をゴミ袋につめているが、労力のわりに少ないのではないか、いやそれもそうだがそもそも遠距離から高速を乗り、フェリーで渡り、叔母の家で準備し、実働し、日帰りするという過密スケジュールをこなすことは本当に可能なのか。地面という地面に根を食い込ませた雑草群を刈り取ることはかなりの重労働です。そのようなことを考え合わせて不可解さはつきず、肝心の草刈りそのものの描写が相対的に少ないだけに、この場合の〝無償の労働〟における贈与性、つまり無の対価を奉げ匹敵する行為へつながる動機が最後まで見えてこなかった点です。私がそこまで思う理由は、前述したごとく、私自身空き家の敷地の草刈りをせねばならない立場にあり、私の場合一人でやることもありますが、準備などもふくめると、まずは手始めにやる縁側の20平米くらいの面積さえ刈り取っていくことはしんどく、残暑の季節などに行くものなら水分補給と休憩はかかせず、かといって連日でやるにも体調はくずれ、体力回復もおぼつかなく、けっきょくはいつも計画の5分の1もとどかぬ状態で引き返すというのがおちだからです。

しかしこの作品をつうじて作者のやろうとした意図は明確にわかりましたし、挿入される物語における微細な表現で、よくまあこここまで人間心理を想像できるなあと思わず息をのむ場面が多々あったことも確かで、いろんな面で勉強になった一作でもありました。(夢屋代表 宮本誠一)

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