「短歌にも、小説にもある居場所が、詩にはない。どうして詩には居場所がないんだろう。いくつか理由は考えられる。
ー生きていることにいつも疑問を持っていて、どんな説明にも容易に納得できない。
ーしっかりとした居場所や自分の場所を決めることにためらいを持っている。
ーどこにいても自分の居場所だとは信じられない、自分はもっと別のところに帰る場所があるんじゃないかと感じている。
ー生きている意味なんて、そんなに簡単に普通の言葉で説明できるわけがないと思っている。
ーどこかに帰属、所属していて、しっかり守られていて、保険をかけられていて、安心して生きていけるなんてハナから信じていない。そんなことがあるわけがないと疑ってしまう。
ー常にグラグラ揺れていて、そんな場所に必死にしがみついている。生きているってそういうことじゃないかと確信している。
ーいつも何か曖昧な不安にとらわれていて、そこからどうしても逃れることができない。
こういう人が惹かれるものが、詩なんじゃないか。
居場所を持たない人が惹かれるものが詩。だから詩それ自身にも居場所がない。それでも何か自分に託すものに手を伸ばしたい。その、伸ばした腕が詩を作るということではないだろうか」
松下氏はこう書きます。
彼のあげた〝詩に惹かれる人の特性〟がなんと見事なまでに自分に当てはまっていることか、と思いつつ、待てよ、考えてみれば「人」は個としてこの世に存在を得て以降、このような心情をまったく持っていない人が一人でもいるだろうか、とも考えたのです。大なり小なり、ある種の不安定感の中にたゆたっているのではないか。またこうも考えました。そもそもこのような観念的な感覚に浸っていられるのも、具体性をもって日々送らねばならぬ生活空間とそこでの営みや振る舞いに対しては、ある種の<余裕>があるからではないかと。今日の食事ににも困窮した状態で、『自分はもっと別のところに帰る場所があるんじゃないか』などのん気なことを言っていられるだろうかと。今ある、雨露凌げる場所があるだけでもありがたいと思わず手を合わせてしまう自分がいるのではないのか。
パレスチナの詩人、マフムード・ダルヴィーシュの『壁に描く』という長大な詩の中に次の一節があります。
空なり、空の空なり……空なり!
なべて地上の生はかならずや過ぎゆく。
風は北より吹く。
南より吹く。
太陽が太陽から昇る。太陽が太陽に沈む。
だとすれば新しいものなどなく、時間は円環の歩みだ。
明日あるものは昨日ありしもの。無のなかの無。
寺院の甍は高く、小麦の穂も高い。
空が低くなると雨になる。
高らかにもたげられた国は衰亡する。
なべて限界を超えたものはあるとき逆に向かう。
地上の生とは見えないものの影だ。
そう、まさしく『地上の生とは見えないものの影』なのかもしれません。あのル・グウィンの名作『ゲド戦記』の主人公ゲドが対峙し、かつ追い求めた暗黒を背負ったもう一人の自分のように。
にしても〝人〟と〝そのつくりだす対象〟との関係は「詩」にかぎらず、密接にむすびついているものなのだと再認識した次第です。


















