●巻頭言
わたしたちは単に自発的な意識を「詩」という〈形式〉によって書く者であって、世に言う「詩人」ではないし、そう名のることから遠く距離を持つ者らである。しかしそのことと作品の質とは別問題であり、願わくばこの「夢イリュミナシオン」に加わった個々の作者の言葉の妄想がランボーが唱え渇望した〈精霊〉の影のひとひらなりとも導くことが叶わんと、彼の未完で終わった詩集の名を借りることにした。
言うまでもなく、詩を始め、優れた言語芸術は「書く」ことの本質を読む者へ再考することを強いてくる。それは慣習的な精神の束縛や社会的な疎外の解放区を熱情と技法を用いながら自らの内部に押し広げようとした行為を、読者はいわば逆にたどるのであり、違和や共感が生じつつ思想を超えた美的深度が否応なく図られ試されるのは当然であろう。わたしたちはそのことをむしろ積極的に望みたい。
表現言語と、それを固有の恣意的言語で変換した読者のイメージの関係は、言いかえればソシュールのシニフィアン(意味をふくむ文字や音声)とシニフィエ(その文字や音声から得る一人一人のイメージ)の二元論へ還元されるであろうし、加えて昨今すすみつつある〈恣意性〉とは対極をなす言語と身体的動機付けの関係性を「音象徴」としてとらえた〈有契性〉を考えるきっかけにもなるだろう。
そのような意味で今や、読む側と読まれる側との相関的な構造関係はあってなきようなものであり、まさしく平原に立つ二本の裸木といっていい。その幹にどのような枝葉もしくは花弁をつけるかは一途にこの小ページの言葉と読者諸氏の世界が規制の枠にとらわれずなにを触媒とし、あるいは無媒介でどのように交錯し合うかにしかこたえはないはずだ。そのことをわたしたちは大華盤とも見紛うカルデラの地にひっそりとたたずむひそやかな山影から試みたいと思っている。
(宮本誠一)
詩の発表の場『夢イリュミナシオン』への思いは以下のとおりです。
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