2024年5月29日の熊日新聞『新生面』について、社会部へ申し上げたいこともあり、翌30日に電話しました。
出だし『毎日のように記事を書いていると、言葉の使い方に敏感になる半面、一般に知れ渡った名称などは無批判に使ってしまいがちだ』その主旨はよくわかります。前半部の「狂牛病」という名称に関してもなるほどと納得しますが、少し引っかかったのは「『トランスジェンダー』は『障害』ではないとし、GID(性同一性障害)学会が名称を変更し、『日本GI(性別不合)学会』とする」件に関し、「呼び方一つで傷つき、生きづらさを覚える人もいる」ということで「障害」種の枠からはずれたことでよかった、で終わってしまってはいないかという点でした。
2019年5月26日のWHO総会でWHO国際疾病分類担当のロバート・ヤコブ氏は性同一性障害は「障害」でなく「性別違和」であるとの公式見解を発表し、「障害」の項目から外すことによって、これからは『性別不合』と呼ばれる人たちが、これまで着せられてきた汚名を返上することにつながる」と述べられています。
きちんとした科学的根拠と病理学の視点で「障害」種から外すことに私はまったく異論ありませんし、それはしかるべき当然の道筋でしょう。
ただここで看過できないのは、では既に「障害」という呼称をつけられることが既成化している人たちは、これまで通り「傷つき、生きづらさを覚え」ながら「汚名」の中で生きることが当然でいいのかという、そちらの視点がすっぽり抜け落ちてはいないか、もしくは言い過ぎかもしれませんが、そのことはゆるぎない自明の事実として認めた上で、ヤコブ氏の発言もそうですが、この「新生面」も書かれてはいないかということが気になり、電話をした次第です。
このテーマは『出生前診断』と重なる部分があります。
現段階で既に簡単な血液検査からでも、かなりの精度で出生後の様々な障害や疾病がわかる段階に来ており、まだ不分明な領域も残されているとはいいながら、おそらくは今後、倫理的な課題を背負いつつ法的変動があったとしても診断を望む人は絶えることはないかと思われます。その中で発見できた方々がどのような方向へ進むかはさだかではありませんが、問題はある障害、もしくは疾病は早期発見できた(もしくはできるようになった)からいい、まだ別のはできないから残念という文脈へ安易に進んではいけないということではないでしょうか。
そもそも、もっとも重要な前提は、どんな障害や疾病をもっていようが安心して出産でき、育て、一人ひとりが生涯を充実して自分らしく生きていける社会環境や制度が完備されていることがまずは最低条件であって、そのことを最優先に達成することを主眼に論議することなしに話をどのような形で進めて行こうが、それらは結局は、基本として不平等な社会構造を温存することが含まれてしまい、抜本的な改革がないという意味では同じことになってしまいます。
つまりはこの『新生面』でも「『障害』」という枠組みから外れたからよかった」という地点からもう一歩踏み込んでいただき、では、現在もこの「障害」という枠内で理不尽かつ不合理な差別的な状況の中で生きざるを得ぬ、またはそのような厳しい待遇をあたかも当然のように甘受させられている方々がいらっしゃり、その事実を受け社会はどうあるべきか、そのことも皆さんで考えていかねばならない課題でしょう、という文を一行でも加えて頂いておけば、どれだけ今回のテーマからより広範に対<差別>、対<理不尽>という視点で被差別連帯としての<普遍性>が広がっただろうかと思い、そこがないゆえに「障害」という言葉に対しては、ご自身が導入で書かれたごとく「毎日のように記事を書いていると、言葉の使い方に敏感になる半面、一般に知れ渡った名称などは無批判に使ってしまいがち」に陥ってしまわれたのではと至極、残念な思いがあり、お伝えした次第なのです。(「夢屋」代表 宮本誠一)
2024年5月29日の熊日新聞『新生面』について、社会部へ申し上げたいこともあり、翌30日に電話しました。
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