「共」に「生」きる。 in 阿蘇

吉田先生、こちらこそありがとうございます。

宮本様
 先日いただいた「游人たちの歌」読みました。夢屋を中心に宮本さんの歩んでこられた日々は、大変なものだったのだということがよく分かりました。いつもの宮本さんの笑顔の裏に、様々な想いがあることを改めて知った次第です。
 この本を読み進めるうちに、今までも抱いていた疑問、つまり、何が宮本さんをここまで障がい者支援に打ち込ませるのだろうかという疑問が湧いてきました。関わるきっかけは冒頭にかいてありましたが、それにしてもなぜここまで全身全霊をかけて取り組まれるのか、障がいを持つ娘の父親としては、宮本さんのような存在はありがたい限りですが、、、。文字には表せない何かがあるのでしょうね。
 ---障がい者の身を守り、舵取りをし、行き先まで決めるのが健常者の役目ではない。健常者と障がい者が「舟」と「乗る人」の関係ではなく、「水」とそれに「浸かり、戯れる人」の関係だったら。あくまでも障がい者が主体性を発揮しつつ、健常者をサポートする柔らかな水の役割を果たしていきたい。---
 最終ページに記されたこの言葉に強く共感しました。僕も、この言葉を胸にSOの活動に関わって行きたいと思います。素晴らしい本をありがとうございました。


たった今、お盆で実家に帰省していて、阿蘇へ帰ってきたら、こんなすばらしいコメントをいただき恐縮している次第です。
実家に帰るやいなや、「本(游人たちの歌)はもってきたつね?」と両親の催促の声がありました。
実家は、熊日新聞ではないのですが、ありがたくも自費出版の記事が予想外に大きかったせいで、わざわざ公役のとき近所の人が知らせてくれたそうです。
私も観念し、何かの折にはと車に数冊置いている中から一冊をわたしました。
というのも、出だしに幼稚園から小学校までいじめられていた様子が書いてあるため、もし両親がほしいといっても、今回は前回の『トライトーン』とは違い、部数が少ないからとか何とか言ってごまかそうと思っていたからです。
しかし、ことこうなってからは、もう覚悟を決めるしかありません。
「実はね、これまで言わんかったけど、おれね小学校のときとか、ずっといじめられとったつたい。これにはそのことが書いてあるけん、もし見たら、『ああ……、誠一はこぎゃんこつがありよったつたいねえ』てお父さんもお母さんも悲しむんじゃなかつかなて思とったけど、やっぱりあげるけん。とにかく心配せんでよかよ。昔のことだし、ちゃんと乗り越えて生きてきとるとだけん」
そう言うが早いか母が、
「あんた、小さかときはおとなしかったもんね」
と涙をこらえながら呟きました。
父は、黙っていました。
車で長距離を運転してきたこともあり汗だくだった上、その場にもなんとなくいずらいこともあり、シャワーを浴びに風呂に入ると、何やら父が母に言っているようです。
風呂から出て居間へ戻ると、台所のテーブルで父がさっそく表紙をめくり読んでいて、私が来たのに気付くとすぐに閉じ、本をもって自分の部屋へ行ってしまいました。
「お父さん、なんて言よらしたつね」私が母に尋ねると、
「どうせ、俺には読ませたくなかて言よったつじゃろて言わすけん、あんたの言うたことば説明しよったつたい」
そこでようやく事情がわかってきました。
今年82になる父も、寄るとし波には勝てず、耳が遠くなってきたそうで、私がいったことがあまり聞き取れず、かってにそんなふうに受け取っていたようなのです。
「でもね、耳のことばあんまり言うと腹(はる)かかすけんね」
それから、
「あんた、いろいろ(本を)出すのにたいへんだったろうけん」
両親は、ちゃんとお祝いまで用意してくれていたのでした。
さて、長くなりましたが、吉田先生の疑問の、なぜ私が、先生のお言葉を借りれば、ここまで障がい者との作業所運営に身を入れているか(自分では全然そんな気はありませんし、事実そうだと思います。けっこう力をぬくべきところは力をぬき、楽しんでやっています)と言えば、先生が指摘しておられるように、文字には成っていない部分が少なからず影響しているとは思います。とくにいじめ体験は、やはり体にしみ込んだ面として無視できないでしょう。でも、「いじめ」と簡単に書いてしまってはかなり消えてしまう部分があるようにも思えます。自分の感情の中で、その本質というか体感したところを探ってみますと、自分ではもっとこう相手や周囲にうまく自分の感情を伝えたいのにうまくできなかったもどかしさというか、ズレや誤解、断念……そんな時期が長くあって、強い疎外感のようなものを持ち続けてきたことがやはりどこかで現在の自分とつながっており、したがって当然、生き方と言うか先の時間の経過にも関係してきている感じがします。
そして敢えて誤解を恐れず書かせていただけば、その疎外感が、夢屋へやってくるメンバーたちが社会に対して持ち続けたものとどこかで共通している(重なっている)とも思えるのです。
実は、私は幼稚園に行くまで、私独特の単語、たとえば船は「ビビアン」、水は「プップシャー」など自分で勝手に作った造語を多用するあまり、ほとんど何を言っているのかわからなかったらしく、母は一度は病院の受診まで考えたそうです。(母に確認したところ、正確には「母」にはだけはわかって、他の人には理解不能だっそうです)
そんな時期の心地よさと表裏した疎外感というか孤独感の体験はきっと現在の自分、そして障がい者との活動の在り方とどこかでつながっていると感じます。
ただ、これまでお書きしたたことは、けっきょくのところ誰にもあることだと思ってもいます。私からすれば、吉田先生こそ、よくぞそこまで生徒さんたちと授業だけでなく部活や夏の合宿など、様々な活動に熱心に取り組まれ、しかも授業の技術を高めんと個人的な勉強会の開催など、頭の下がる思いがしています。(もちろん、娘さんとのつながりもすばらしいといつも感じています)
まあ、お互い、ある面で似たもの同士なのかもしれませんね。
ついつい、くだくだと長くなりました。
いずれにせよ、野菜ty(のなてぃー)での宿泊やメンバーへの声かけなど、とてもありがたく思っています。吉田先生のような情熱を持った先生は現場ではとても貴重な存在だと思いますので、どうかお体、ご自愛され、できれば長く担任をしてもらえればなあなんて、勝手なことを思っています。でもこれからどんなポジションにいっても、さらに先生ならではの教育の実が結ばれんことを期待している次第です。
またお会いする日を楽しみにしております。
本当にあたたかなコメント、ありがとうございました。

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