「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『海神』・その3

 舳先は、正面から吹く風を切っては上空へ推し上げるようにしながら進んでいった。風は生き物のように二手に分かれ霧のように湧き上がり、各々の顔をなぶりながらまた船尾を過ぎると離れた躯を結び合わせていく。時々海に浮かぶ浮游物をとらえたのか、船底に釘の引っ掻き傷のような音を立て細い木切れのような物がぶつかりその存在を訴えていく。 敏雄は目的地を目指し、スロットルを上げた。
 女たちは、徐々に沖に近付くにつれ黙り込み、貝をどれだけ採れるかその集中を計るため思案しているようだ。敏雄にもその緊張感はひしひしと伝わってくる。僅か三時間足らずが女たちにとってその日の勝負なのだ。どこの干潟を狙いどの辺りにガン爪の最初の一刀を食らわせるか、それは全て女たちの執念と勘のようなものにかかっている。経験も確かに必要だ。だが、敏雄は明日の糊口のため常連に誘われ初めてやって来た女がいつも来ている女と変わらぬぐらい貝を採ったのを見て知っていた。貝堀りには、その本人の能力より何か執念めいたものが作用するときがある。五枡なくともその女の差し出す網袋は、他の者と比べ同じくらいに重く、塩水に何度も漬け泥を流し疑う敏雄を最後には仕事の忙しさに任せ納得させ船に積めこませてしまう、そんなことも幾度かあるのだ。
 船が船体を安定させるに足る最大限の潮と干潟の擦り合う場所に着いた。
 潮もまだ残っているのも気にせず、女たちは乗り込んできたときとはうって変わり一言も発することなく、それぞれに意志を躰中から溢れさせ、船べりを跨ぎ潮の引きに追い付き追い越す勢いでどす黒く影を持つ方向へと散らばって行った。
 女たちは腰を屈め手を使って自分たちと同じく物言わぬ貝をこしゃぎ採り、網の中へ入れていく。手に付けたゴムの手袋は一日だけで穴だらけになり貝の破片で切り裂かれてしまう。手首に赤い血を流し塩水につけながら、それでも辛抱し採りつづけている者もいる。うかうかしていると良い貝の寄せ場が他の女の手で奪われてしまうからだ。女たちは、言葉をなくし無言で腕を前後に動かしている。敏雄と由介は、そんな採れた貝袋を抱えながら艙へ載せるのだ。塩水が滴りながらダバ靴を伝っては濡らす。
 作業は、黙々とつづけられ、陽光は少しずつ西へ傾いていく。
 網袋も重ばり、船腹を僅かに湿った潮水とその下の潟に押し付ける程になってくると、いつものように風が湧いてきた。風は向きを変え潮の満ちを知らせるのだ。
 干潟の様子は、少しづつ変貌し柔らかさを増し、水分の多さを女たちの掌に直に感じ取らせてくる。女たちは、尚急ぐ。潮の満ちる前に自分たちの力を尽くしアサリの寝床を襲い採れるだけ採り、掴めるだけ掴んでおこうと女たちは、足を踏ん張り腕に力を入れ、首を屈め股の間から錦の模様の付いた貝を一個二個と指先で数えながら宝石を扱うように網に満たしていく。
 やがて潮は満ちてきた。流れが手元に届いてくると足先まで漬かるのは思いの他速い。潮は待ってくれることも休むことも、そして澱むこともなくきらきらとその中に、季節により繰返される光を称えながら無情にもやってくる。もっと長い間、この干潟が顔を出しつづけてくれればと女たちは無言の中に思う。眼前の泥を被ったような干潟が見る見るうちに消え失せ、跡形もなくなっていく。女たちは、諦め切れない表情で今入れかけていた網を手にし、船に乗り込んで来る。敏雄も由介もかなり遠くまで稼ぎに行っている女たちを呼び寄せにかかる。潮は満ち、荷で重くなった船を、少しずつ今度は、どんよりと曇った空に向かって浮かせにかかる。
 女たちは元いたように船に乗り込み、そぞれに堪り兼ねたことを呟き、ごちった。
 船に帰り岸まで戻れる充分な深さになるまで自分たちの躰を指針に、重りの秤に掛けるように、地上から浮き上がり海面と一緒に船体もろともその接触する体積が増加するのを待っている。
 船は出発する。
 エンジンの音を響かせて、今度は岸を目指し女たちの採った海神のわずかな思召しを載せ、ざれごとと一緒に誰の待つでもない岸へと帰っていく。雨は思い出したようにその時強く降出し海面を走りきり、覆い尽くす。
 誰かが叫ぶ。
 「今日もこれでなんとか、飯の支度ができるごたる」
 海神は、ここぞとばかしに雨を降らし、黒く覆った空に雷光を浴びせる。女たちは顫える間もなく船から下り立ち、岸の堤防の中へ吸い寄せられるように消えていく。敏雄は、顔に雫を幾つも付けた由介と一緒に、それらを見守る。

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment