「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『海神』・その5

「敏雄もしょうもなかね。時化で船だされんごつなるとまたパチンコ屋行ったたい。台風んこようがパチンコ屋だけはよう繁盛しよるごたる。役場ん前にも一つできたげなばってん、役所んもんも、昼休みんときから行きよるげなけん。ほんなこて飽きるる」
 美佐江が孝造の事務所から帰ってくると、台所にいた律子に言った。律子の予定日はもうとっくに過ぎていた。一度陣痛が起こり病院へ行ったが、また治まり二日入院しただけで帰って来た。それから四日経っている。
 「もうそろそろ生まれんと、かえって危なかけんね」
 美佐江は、あまり律子に相手の家のことについては訊こうとはしなかった。今はとにかく子供を無事生んでもらうことだけを考えてもらうよう持っていっていた。祝言も上げていない。相手の父親や母親にも会っていない。その親が相手の女にいるのかさえわからなかった。一度だけ、父ちゃん母ちゃんは、と尋ね掛けたときがあったが律子は笑いながら、ちゃんと連絡はしてあるから心配しなくていい、ときっぱり言った。だが、電話一本掛かってこないのは何とも解せず腑に落ちなかった。
 アパートにいるとき美佐江は、敏雄にはもちろん内緒で律子を何度か訪ねたことがあった。最初、あのように強く追い出したためどこか気が引けるところがあるにはあったが、そこは美佐江も菊岡の娘だった。自分で息子の連れてきた女のことはしっかりと確かめてみたいと思ったのだ。
 「父ちゃんは父ちゃんで、台風きたとたん、海の様子ばっかり見にいきよるし。またあの夢んごたることのあると思とっとだろか」
 律子が、黙って何やら立ち仕事をしているところを見、美佐江は卓袱台に腰を落着けながら「そっがねあんた、敏雄が私ん腹ん中おるとき、海に貝が山んごつ集まったこつのあったとよ。今と同じこぎゃん台風の過ぎてすぐやったけど」
 律子は、驚く素振りも一つ見せず、腹を抱え茶の用意をしに入ってきた。
 「なんか、あんときと似とるとばってんね……」
 美佐江が律子にそのような話を直接するのは珍しい。菊岡へ来てからというもの、美佐江と律子は接近するでなく日々の食事の支度やら用足しやらをそう細かに決めずにできるだけ距離を一定に保ち、気楽な同居人と見紛うように送っていた。一つのことをするにしてもそれを際限もなく探っていけば結局は赤の他人であるだけにすぐに手詰まりになってしまう。お互いそのことを重々知っていて、年は違ってもそのへんは旨く躱していく術を心得ていた。
 敏雄が律子を初めて菊岡の家に連れ雌犬と罵られアパートへ引き籠もるきっかけをつくったあの日から、既に半年が過ぎようとしていたのである。
 律子は美佐江へに茶を汲みながら、これまでのことをあれこれ思い出すというわけでもなく、しかも悪粗や窶れもさほどない自分の躰が親から譲られたものであることに自分を捨てて逃げたことを咎める気さえ薄らいでいっていた。多少とも情なく喘ぎたい日々がアパ-トにいるときも菊岡の家に入ってからも当然あり、それでもこちらを選び取り平然と暮らしていられる今を、何か恐ろしい得体の知れぬものに自分がなり、その力を借りやっていると思わないではなかった。
 なぜあのとき敏雄にアパ-トとここでは同じ子供を生むのに全然違うなどムキになり言い張ったのか。目の前の美佐江を見ながら今では少しは分かるような気がした。
 「律子さん、あんた…」
 美佐江が律子の苦しげな表情に気付いたのはそれからしばらくたってからだった。
 律子は呻くような声を上げていた。眉間に引き攣った皺が寄り首筋に青い血管が浮かんだ。躰が小刻みに顫えていくのがわかった。疼くような伸し掛かってくるような体感と同時に顔がみるみる顰まっていった。
 美佐子は、タクシーより速いと孝造の事務所に電話した。
 一万負け、敏雄がパチンコ屋から出てくると風もかなり弱くなり、日のいどころもどこにあるのか厚い雲に覆われ当然わからなくなっていたが、確かに暮れ沈んでいることは、辺りの薄暗い闇に包まれた様子から判断できた。
 パチンコ屋の周辺だけが何か浮かれたけばけばしいライトに照らされ仕事にあぶれた者の巣くう一時凌ぎの余興のような雰囲気を持っていた。
 敏雄は帰りを急ぐでなく、車に乗り込むと菊岡へ久しぶりに行ってみようかと思案したがそれも止めた。
 海が気になった。
 明日、船が出せるか、そのことがどうしても頭に残り、なにか落着かず気むつかしい顔にしていた。海岸へ行き由介のように波の音を聴けばその昴りもおさまるのかも知れなかったが、そうすることも敏雄にはできず律子と知り合った店にでも顔を出してみることにした。
 車を店の前の道脇に止め、店の主人の趣味なのか、変わり映えのしない朱色に塗られた扉を開け入っていくと顔馴染みの電気屋の長男と次男が二人早々と出来上がりやってきていた。なんでもアンテナが颱で倒され、その修理にここ三日で六十件近く仕事があったのだという。一件につき五千円貰ったにしてもざっと三十万ほどの儲けになる。
 「電気屋にゃ、台風さまさまばい」
 兄弟は、さすがに今日は早く切り上げ、上機嫌に飲みに回ったというわけだ。とにかく道楽息子たちで有名で、一軒の雑貨屋から今の店にまでにした父親がつい二年前に死に、ようやく浮きがちだった腰を据え仕事に少しは精を出し始めたという二人だった。近く父親の買っておいたもう一つの土地に弟が店を建て独立するつもりであることを、兄である敏雄より五つ年上になるその長身の男は言った。
 ママは兄弟がいる手前、敏雄と律子のことについては何も言わなかった。おそらく村で評判のことでもあるし兄弟もそのことはどこかで耳にしたことはあるに違いなかったが、それを今口に出せば、根堀り葉堀り聞かれることはわかっていたしそれを無碍に拒むのもつまらない。敏雄はそんな気分ではなかったしママもそのことは知っていた。
 「マスターは?」敏雄は水割りを口に含みながら、やることもなくそんなことを訊ねた。
 「あん人最近、早朝ソフトボールのチームつくらしたけん。そん習慣で朝は早かばってん、夕方今の時間はぐうぐう寝とらすとよ」
 敏雄は主人の傷の入った顔で持ち場であるというショートの位置に入った姿を想像し、可笑しかった。
 水割りを三杯飲んで、その店は出た。擦れ違いに女を二人引き連れた乗馬ズボンの鋭い目付きをした男と会った。その男も稼業は瓦屋を営んでいた。台風で来る客層も決まっているようだった。敏雄は、新しく入っていたミユキという名の店の若い子の顔もよく思い出せなかった。
 帰り際、ママが律子のことについて一つ二つ訊いたが曖昧に答えておいた。     

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