「共」に「生」きる。 in 阿蘇

『白ねこと少女』その4

   4 瞳の奥の白いねこ
 「今日の朝早くだったんだけど」か細い声で、相手はつづけました。
 「おじさんは、ここにいていいの?」
 絵里にとっては、精一杯の言葉でした。
 島さんは、首を横にするだけです。
 唇に天井からふりそそぐ蛍光灯の明りが反射し、つばを薄い氷の破片のように光らせていました。島さんはおもむろに、またストローをくわえ、吸ったり吐いたりし、パックをふくらませたりちぢめたりしました。それからぎこちない動作で、ジャンバーの内ポケットから一枚の写真をつかみ、絵里に見せました。縁がインクでにじんだようにところどころまだらをつくり、色あせています。
 「これが、おじさんちなんだけど」
 絵里は写真に目を向けました。喫茶店のようなつくりの建物の前で、島さんともう一人、小柄な老人がならんで写っていました。
 「お店をやってたんだよ。おじさんは、こう見えてもコーヒーを入れるのが得意だったんだ」
 そこにはないフィルターに、今にもお湯がそそがれ香りを嗅ぐように、顎をしゃくりました。口もとは知らず知らずニンマリとゆるんでいます。
 島さんは苦しそうに咳きこみました。喉の奥で啖がからみ、そのからみをむりやりとるように、激しく二度くりかえされました。胸から外へうなるように轟きます。病院の廊下にひびくその音は、耳ざわりで不吉なものでした。
 「おじさんも、具合がわるいの?」
 「ああ、少しね。でもちっちゃいときからだから、もうなれちゃったよ」
 絵里はそのとき、ベッドに伏している繁のことを思いました。すぐにもどろうかと考えましたが、なぜかできません。
 写真をひざの上に置き、島さんは、今度はさらに思いたったように顔を上げました。パックを持ったまま、じっと片方の掌をひろげ、裏表にします。それから絵里の方へ視線を動かし、またスローモーションのようにもどしました。
 絵里が黙っていると、島さんはつぶやくように、
 「おやじの心臓が止まってから最後に、おじさんが鼻から管を引きぬいたんだ。そしたらこんなに、へびみたいに長くって……」
 腕をひろげます。絵里の両肩の何倍もありました。
 「先っちょに、血がこぼれてて、それがチロチロ出てる舌みたいに見えてね。おじさんこわくなって」クスッと笑い、「みんながとめたけど、それを窓からほうり投げちゃったんだ。そしたら親戚から、お前はいいから外に出てろって」
 眉と眉との間にシワをよせ、悲嘆にくれ、今にも泣きだしそうです。唇をつよく噛み、またストローを口にすると、噛みくだくように歯をたてます。
 「あの機械、こんなふうにね」
パックに空気を入れ、吸っては吐き、
「おやじに、むりやり息させて。おじさん、ぜちゃったいやっつけてやりたかったんだ」
 真剣な顔で言いました。
 「あとで見たら、指先に血がついてたよ。おやじの匂いがした。酸っぱい、それでいてねばねばしてるようで……」
 背中から腰にかけ、バネがしかけられているようにふるえだしました。まるで凍えた人のようです。
 「それなのにおじさんは、あんなに好きだったおやじなのに、その血をなんども、水道で洗ったんだ……」
 そこに水と洗面台があるように、穴のあくように壁を見つめていました。
 「気持ちがわるかったの?」
 「そうじゃない。そうじゃ……」
 島さんは大きく息を吐きました。
 パックをにぎった手の甲の上にもう片方の掌をのせ、かじかんだ手をもみほぐすように、何度もこすりました。表情は、かげりを増し、うつむいた首が横にふられます。パックはつぶれくしゃくしゃになっていました。
 絵里は体をかたくし、掌をぎゅっとにぎりしめました。顔の筋肉がこわばり、うまく気持ちをあらわすことができません。
 「えりちゃん、虫をつかまえたことはある?」
 どことなく、やわらいだ口調になりました。
 絵里は首をふりました。
 「おじさん小さいときは虫が好きで、よく飼ってたんだ。えさもちゃんとやってたんだけど、でも、いつも最後にはかごの中で死んでいたよ。それも、なぜか明け方なんだよなあ。おじさん、悲しかった」
 絵里も、たまに感じることがあります。
 暗いベールがもうじき消え去ろうとする頃、ふと目が覚めると耳がツーンとして冷んやりとしてきます。自分以外の気配がいっさいしなくなり、とても心細い時間です。
 「おやじは、明日には灰になっちゃうんだ」
 絵理はおびえた顔になりました。
 「おじさん、おふくろが死んだとき、火葬場の人にたのんだんだ、燃えてるのを見せてくれって。でもだめだったな。あとで骨の中から、真っ赤なボルトが出てきたのはおぼえてるんだけど」
 絵理は、下を向きました。
 「おふくろはね、膝の手術をして、骨と骨とをボルトでつないでたんだ。あとでおやじが教えてくれたよ。おじさん、そのボルトを見たとき、てっきりおふくろの心臓かと思ってね。それをもらってお守りにしたかったんだけど、させてもらえなかった」
 絵理は、こわくなりました。
 「もういかなくちゃ。ママたちが心配しているもの」
 「もしよかったら、今度、おじさんちに遊びにこない?」
 島さんは持っていたペンで、写真の裏に地図を書きました。
 「なんならおじさん、迎えにいってもいいよ」
 絵里は、地図を見ながらしばらく考えました。アパートからそう遠くないところのようです。絵理がどうしようか悩んでいると、島さんは、いかにも人なつっこそうに声をかけてきます。
 「いつならいい?」
 「いけるとしたら木曜かな」
 とっさに彼女は、富江がアパートへ来ない日を答えます。
 「わかった。だったら、こんどの木曜にね」
 けっきょく、つぎの木曜十時に、アパートの前で待ち合わせすることになりました。
 「あっ、それからこれもわたしとくね」
島さんは、また名刺をとりだしました。
 「名刺ならもらってるよ」
 断ろうとすると、それをさえぎるように強引に手ににぎらせます。
 今度は『島 道生』と書いてあるだけでなく、文字はすべて金色で、肩書きも『取締役』です。
 「あれ、おじさん、社長じゃなかったの?」
 待っていたとばかりにうれしそうに、
 「印刷屋のセールスがうるさいから、おやじが入院してるうちにつくってもらったんだ。こんどは取締役がかっこういいかなって思って」
 彼女は、しかたなく写真と名刺をもらい、オーバーオールの胸ポケットにしまいました。椅子から立ち上がると、階段へ向かいます。一歩あがるたびに靴音が耳もとにひびきます。
病室は、絵里の不安をよそに、笑い声で満ちあふれていました。
 「はい、これ」
 絵里は自分が飲もうと買っていたジュースを祐一に手わたしました。祐一は、ありがとうと、笑ってうけとりました。
 「祐一よかったね。おねえちゃん、ちゃんとあなたのぶんも買ってきてくれたんだ」
 和子の言葉に祐一は、照れくさそうに鼻の下を手でこすりました。
 その晩、絵里がベッドに寝ていると、天井の木目もようが大きくなってきました。そこだけ気味のわるいほどふわふわと浮かび上がります。まぶたを閉じると、うらがわでパーッと光が飛びちったようになります。
 前に、カゼで熱がひかず、うなされたことがありました。目を閉じると、空へつづく階段を一人で上っていく気持ちになります。その日も、そのときに似ていました。自分の家から、どんどんはなれていっている気分です。
 祖父の繁の顔が浮かびました。顔中しわだらけで、とても小さく、今にも消えてしまいそうです。ベッドごとどこかへ運ばれていきます。その後を富江も追いかけていきます。和子も祐一もついていきます。絵里はどうしようかと悩み、一瞬立ち止まり追いかけようとしましたが、ほんのわずかの迷いが手おくれでした。目の前には幕がおろされ、なにも見えなくなってしまったのです。
 絵里は、深い闇の底へ落ちていきました。
 次の日の朝、多少うなされ、目をさましました。熱が三十八度五分ありました。富江が看病をしてくれていました。
 ひんやりとした祖母の手が額にふれます。
 「おじいちゃんはだいじょうぶなの」
 「看護師さんがついてるから、今日はいいのよ」
 「おじいちゃんの足、よくなってるんでしょう?」
 「おかげさまでね。絵里ちゃんたちが、見舞いにきてくれるから」
 「でも、いつか死ぬんだよね」
 とっぴな孫の質問に、富江は真面目な顔になりました。
 「そうだね。一応、順番は年をとった人からだけど、だれだって、いつ死ぬかわかんないよ」
 「おじいちゃんもおばあちゃんも、まだだいじょうぶだよね」
 「そんなにかんたんに死ぬわけないでしょう。おじいちゃんなんかね、絵里ちゃんたちが帰った後、病院のご飯だけじゃたりないから、おばあちゃんにおにぎり買いにいかせるのよ。おばあちゃんも、ちゃんと一個もらったけど」
 絵里もそこでようやく安心したように、少しだけ笑いました。
 「おばあちゃん、お葬式って行ったことある?」
 「そりゃあ、あるわよ」
 「初めて行ったのはいつ」
 「あれはたしか、えりちゃんくらいの年だったかね。おじいちゃんが死んだときだから、戦争が終わって何年かしかたってないときだったと思うよ」
 「死んだ人を燃やすのは、くさるから?」
 「そうだね。死んだ人も骨にしてやらないと、いつまでもそのままにしておいてもねえ……」
 それから少し間をおいて、
 「あのころはまだ、途中で一度、火から出して、最後のお別れってことで見せてくれたんだよ」
 絵里は、おどろきました。人が燃えているところを見せるなんて、残酷すぎます。祖父の繁が燃えているところを想像しますが、顔の表面や髪の毛がちりちりと焼けているのを考えただけでも、とても耐えられません。炎の中から、バッと目を開け、熱いよ、熱いよと叫んできそうで、思わず目を閉じました。
 まぶたのうらがわに、なにか生きものがうごめきます。
 「あ、白ねこ」
 目を閉じたままつぶやきました。
 「おばあちゃん、いなくなってた白ねこがいたよ」
 さすがに富江も言葉が出ず、様子をうかがいました。
 「白ねこがね、火の中から出てきたよ」
 「白ねこって、おばあちゃんが飼ってた、あの一匹?」
 「そう。それからね、ほんとはね、わたしにも猫の友だちがいるんだ」
 「へえ、じゃあ、おばあちゃんと同じだ」
 富江がうれしそうに答えると、絵里も口もとをほころばせました。
 「えりちゃん、まだ熱があるし、今日はゆっくりおやすみ」
 ふとんを肩にかけなおしながら、顔を見ました。
 瞳の中で、さっきあらわれた白いかたまりはやがて、炎といっしょに右や左へゆれ動いています。
 オレンジ色の光が、ふさふさした毛の先から、花火のように飛びちります。絵里には、それが七色の虹に見えました。無数のつぶが、さわさわとうずをまき、白ねこは、虹にかこまれ、彼女をふたたび深い眠りへさそいました

コメントはまだありません

TrackBack URL

Leave a comment